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God bless America only?

このテロにより生活上の打撃を最も受けるのが、一般のイスラム教徒。
テロの犠牲者のなかで、もっとも十分な救済処置からこぼれてしまいそうなのは、とくに中南米などからNYに働きに来ていた人達。

こうした事件のたび、イスラムへの誤解や偏見が増幅されてしまう。こわい宗教と思っている人がなんと多いことか。無知はおそろしい。
イスラムは商人と通商都市の宗教。
このようなテロを抑えるには、イスラムの協力が絶対必要なのだが、イスラム教徒のプライドというものを逆なでするアメリカの行動と発言。一般のイスラム教徒にとっても厄介な、この過激派ですが、異教徒に引き渡して裁かせるという構図は望ましくなく、やはり一般のイスラム教徒が自ら処置し解決できる状況をつくるのが望ましい。
イスラムが自らの誇りをもって裁き解決すべき変異体だ。

コーランは日本語訳があるので、一度は読んでおきたい。
新約聖書のようなドラマ性が乏しく、繰り返しも多いので、読んで印象的エピソードやドラマがあるといったものではないので読みやすいとは言えないですが、これを読むと、イスラムというのが、自然への畏敬と、神の形の擬人化の厳格な排除、商道徳と、安全で信頼できる通商圏の維持、異教徒の共存容認、奇蹟や霊力に依存しない明確さ、信仰生活の高い目標と、実際的妥協の2重性、というものを基本的な性格にもっていることがうかがわれます。コーランの中では成立年代的に新しい部分ほどキリスト教徒や異教徒への不信と警戒が強まっていく。

今まで殺戮した人数、破壊した社会の数では、おそらくキリスト教徒が最悪の前科をもっているでしょう。
キリスト教とイスラム教はもともと兄弟宗教で、同じ神を信仰している。
おおきな違いは、イエスを神と一体のメシアとして信仰しているか、イエスを預言者の一人とみなしていて、イエスを神とあがめることを戒めているかというところ。

神という数や量の概念を超越した存在を、「唯一」とカウントし、自分たちの言語の名詞で呼んで他と区別し、神の意志はこうだああだと言い立てる。神が特定の人間の味方についたり肩入れしたり祝福したりするのか。神を唯一という数の概念でカウントし、神はこういう意志をもっているはずだ、自分達の国家や集団の味方だと勝手に推測して述べたてる。
これほどひどい神の擬人化はない。
神は神の形にかたどって人間をつくったと述べながら、神の「かたち」を人間なぞらえ怒ったり祝福したりという人間の支配者の行動様式になぞらえて思い描く擬人化。
キリスト教徒もイスラム教徒も繰り返してきた「神の擬人化」という「偶像化」。
神の顕れを人間の表情に例えて表現する仏像製作よりもはるかに「偶像崇拝」だ。
神の意志表示を自分の都合にあわせてつくりあげるという最も最悪の偶像崇拝を世界の多くの宗教は繰り返してきた。

中東やアフリカ、中南米の現在の状況は、欧米が繰り返してきた悪行の結果である。
アフガニスタンやパレスチナに現在の状況をもたらしたのは、イギリス、ソ連、アメリカや欧州が過去繰り返してきた悪行である。
だから欧米が食料や医療など生活基盤を補償し、様々な経済的・人的支援を行うのは、自らの過去の悪行への弁償であって、特別尊敬するほどのことではない。自業自得だ。
今回のテロは、アメリカを含む欧米の過去の悪行が結果的につくりだした状況から生まれたものである。脅威になっている武装集団は、欧米が与えた武器を持ち、欧米から戦闘方法を伝授されたのだ。
だから今回のテロで被害を受けた日本は、欧米から金や人を出せと圧力をかけられる筋合いはない。欧米が原因をつくって巻き込まれたトラブルに、日本人が巻き込まれたのだ。アメリカは、このような事態を招いたことで日本を含め世界に大迷惑をもたらしているのであり、日本はアメリカでテロに巻き込まれた自国民への補償をアメリカに負担を要求してもよいくらいである。(アメリカの弁護士なら要求するだろう。銀行のロビーにいた客が、銀行強盗事件に巻き込まれて負傷したら、銀行は見舞金くらいは出さされるだろう。)
また中東で必要になっている緊急の難民救済なども、欧米が過去の贖いとして全て負担すべきだ。
後ろで流れ弾を浴びた日本が危険を冒して一緒に仕返しに行く戦争ではない。

空爆が続く。一般人を標的にしていない軍事行動は善で、兵士が相手ならいくら殺傷してもOKということに、いつの間にかなっている。(だからこそ、一般人巻き添えだけを取り上げて問題にする)
しかし、父親や息子や兄弟である一般人が、免れる方法なく政権の命令として徴兵されて出来あがったのが近代以降の軍隊である。一般人が徴兵されて戦死するのだ。アメリカは兵隊を何人爆死させようがOKの国なのだ。

欧米が戦争に勝ち、進駐しても、直接自分達を殺してきた人間を歓迎できるはずはない。
日本がこれに加われば、手を血で汚していない第3者がいなくなる。紛争当事者同士で解決しない事柄の解決には、第3者が必要である。第3者であることを日本は放棄するべきではない。
2001年11月11日 近藤浩平

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