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音楽のコミュニケーション・・・色彩、語彙、カテゴライズ

どこかで聞いた色彩の話を思い出しました。
人間は事物を見聞きするとき自分の言葉や概念で、対象をカテゴライズして受容する。
色を見るとき、オレンジ色、ダイダイ色、青、ブルー、草色、水色、いろんな自分の知っているカテゴリーに引き寄せて把握するそうだ。青と黄色に相当する語彙しかない言語の人は、緑は漠然と中間色という把握をするし、これとは反対に、さらに細分化された語彙を持っていると、非常に細かく判別して受け取り記憶するそうです。遠くの山を描くとき、実際は青なのに緑の絵の具を使ったり、信号が実際は緑に近い色なのに、ずっと青だと思い込んで記憶していることなどは、このカテゴリー化のバイアスの影響かもしれません。
確かに、黄色という語彙しかない人より、山吹色、だいだい色、オレンジ色など色についてたくさんの言葉をもっているほうが、繊細で正確に色の印象を自分のものにできるのは経験されることです。音でも同様のことがあるように思います。
色についての語彙が多いほうが、多くの事物を見聞きして、名前を付け、記憶を整理するという情報処理には有利だが、逆に、名前をつけることで本当に目の前に見えている色をありのままに見ない、カテゴリーにあてはめてしまうということも起こる。
ちょうど、子供が事物を見えたまま大胆な色の絵の具で描いた絵を、固定化した常識的色使いに直してしまう教師のようになってしまう場合もある。
語彙によって縛られてしまうかもしれません。

 少し話しはそれるが、これを音律の把握の場面で考えると、ちょっと、絶対音感の話なども連想させます。そういえば、昔、家に音楽大学の学生が何人かやってきた時、微分音が入った平均率でない音楽を聴かせると、ヴァイオリン科の学生が異常なほどの嫌悪感を示したことがあります。自分の音感の中でカテゴライズ=命名できない音の高さがよほど受け入れ難いものだったのでしょうか。多数の人にとっての無調というのも似たようなものかもしれない。

 馴染みのない音楽言語でつくられた音楽、未知の音楽的ヴォキャブラリーから成り立っている音楽。例えば、西洋の18−19世紀の調性音楽の中で育った人にとって、調性から離れた現代音楽、あるいは非西洋音楽といったものに接したとき、自分の「音楽的ヴォキャブラリー=(カテゴリー)」に含まれない音を、音楽的関係付けの中で把握し、あるいはその音が記号として意味するものを音楽文化の文脈の中で理解できないということが起こる。
文化的背景、あるいはその音楽が前提としている音楽聴取の在り方がわからないため、音楽が何を表現しているのかわからないということはしばしば起きる。例えば非西洋音楽に接した時、その音楽が明るい音楽なのか、深刻な内容の音楽なのか、結婚式の音楽なのか、恋の音楽なのか、葬式の音楽なのかさえわからないということを経験する、多くのクラシック音楽愛好者が、非常に表現主義的な無調の現代作品を、感情のない冷たいバラバラな音にしか聴かないということもよく起こることです。

 しかし、一方で、全く未知の異文化の音楽や、全く文化的社会的背景も知らない音楽に接して、非常な感動を覚えることもしばしば経験される。歌詞も状況もわからないまま聴いた音楽、しかも、非常に西洋音楽とは異なった様式の音楽に接して音楽としての感動を経験することも、多くの人が経験する。インドやペルシャや、アフリカの「音楽」を、私達は聴いて、何も意味はわからないまま、またその音楽様式の秩序も正しく把握できないまま、音楽としての感動を経験することもある。
 音楽のコミュニケーションには、言語的な情報、記号として意味が伝わるものと、そういうことを超えたところで普遍的な音の身振りとして伝わる部分があるようです。

近藤浩平 1999年11月1日

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