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コンピュータ(パソコン)と作曲

クラシック系現代音楽におけるコンピュータとシンセサイザー/ポピュラー音楽におけるコンピュータとシンセサイザー/楽譜作成の道具としてのコンピュータ/作曲にコンピュータを使う/脱線ですが余談

作曲にコンピュータを使うことは、とくにポピュラー音楽においては非常に当たり前のこととなっている。
それどころかMIDIを使い、演奏に至るまでコンピュータを利用することさえ、日常的なことになっている。
クラシック系の芸術音楽の作曲においては、とくに1950年台から1970年台にかけての前衛の時代には、作曲のプロセスの基本的な部分、音の組み合わせの計算にコンピュータを使うといったところまで至り、また人間による演奏によらない電子音楽、ミュージックコンクレートもさかんに作られた。それにもかかわらず、作曲と演奏におけるコンピュータと電子楽器の利用度の現状は、ポピュラー音楽においては全く日常化する一方、クラシック系現代音楽においては、一時に比して後退している。

クラシック系現代音楽におけるコンピュータとシンセサイザー
 クラシック系現代音楽におけるコンピュータと電子楽器の利用度の後退には、様々な要因があるが、まず最大の原因が「現代音楽」の演奏の場の形態が、ほとんどクラシック演奏会の形態と同じであることにある。ステージで全ての音が目の前の演奏者のアコースティックな演奏であるという1回性に大きな価値が置かれているため、アンプリファイされた音、あるいはMIDIによりプリセットされた音、あるいはあらかじめ容易された録音を聴くということが、演奏の場の重要な要素の欠如として受け止められる
一方、今日のポピュラー音楽においては、音楽産業における流通形態から録音されたメディア(CD等)が完成品としての最重要な商品となるため、その制作プロセスにおけるコスト削減と効率化の手段として大きな抵抗なく利用されている。
 また、クラシック/現代音楽においては、全てのパートが演奏家による一回限りの音楽表現とみなされているため、例えば歌手が完全に主役となり他は伴奏に過ぎないようなスタイルの歌曲であったとしても、伴奏オーケストラのコストを省くためにコンピュータによってコントロールされたシンセサイザーで代用することは受け入れ難いものとなっている。
電子楽器でもオンド・マルトノのように演奏行為が伝統的1回性をもったものは、芸術音楽にふさわしい楽器として受け入れられている

ポピュラー音楽におけるコンピュータとシンセサイザー
 しかし、ポピュラー音楽においては重要なパート以外のリズムセクションやコードを支える充填パートなどを、あらかじめプリセットしておくことは、ヴォーカルとギター、ベースなどのメインとなるパートの演奏に注意が集中しているだけに、かなり容認できるようだ。ポピュラー音楽でも、バックバンドの演奏にまで強い関心の払われるもの、例えばラテン音楽やジャズ的要素の大きいものでは、生演奏によるドラムスを、リズムボックスに置換えてしまうことには大きな抵抗がある。歌手以外に大きな関心が払われることの乏しいスタイルの歌謡曲やポップスであれば、バックのストリングスがシンセサイザーの音で代用されていても音楽性が損なわれる程度は軽微なものと言える。なぜなら、その歌手の声が圧倒的に重要だからだ。
 もちろん、ポピュラー音楽におけるコンピュータやシンセサイザーの役割が、常にこのような消極的な意味のものに留まっているわけではない。小人数からなるバンドでも、非常に多くの音色のパレットや、充実した音の厚みをもったサウンドを構想することが可能になり、ミュージシャンの音楽的スケール次第で、オーケストラ曲に匹敵する変化に富んだ複雑な楽曲づくりも実現可能になった。少し以前なら、大編成のバンドを組み、多くの楽器を手に入れなければ演奏不可能だったような構想の音楽を、小人数のバンドでも実現できるようになったことは音楽技術上大きなメリットだと思われる。
 
楽譜作成の道具としてのコンピュータ
楽譜を書く道具としてコンピュータを使用することへの抵抗感は、私の知る範囲では、クラシック系現代音楽の作曲家の間ではまだまだ根強いようです。これには、2つの理由があるように思われる。

 第1に、機能による問題点
作曲用ソフトは、近年進歩が著しいとはいえ、非常に前衛的な書法、特殊な記譜、音楽様式を駆使した作曲を行う場合の対応は不充分であり、この面で最も自由度の高いソフトと言われるFinaleでさえ特殊なポリメーターや特殊奏法などの記譜には、煩雑な設定と選択が必要になる。一般的な音楽記号と5線譜で書き表すことが出来る音楽、とくに伝統的スタイルの拍節と調性をもった音楽を記譜する際の便利さは充分なのだが、例えば各パートの小節線を独立させる、複合拍子やポリリズムに対応しての柔軟な桁化、特殊奏法を表現する特別な音楽記号など、ひとつひとつ通常の設定を解除して、パーソナルな設定を行う必要があり非常な労力がかかる。特殊な記号をつくるため、マニュアル片手にシェープデザイナー機能と格闘するほど作曲家は暇ではない。
各パートごとに異なった拍子にして小節線をずらす、特殊な記号を記すといったような必要が頻発する楽譜を書く場合、現状では、まだ手書きの方が早く効率的である場合が多い。
 また、作曲中、譜面の他のページを参照する必要がしばしばあるが、とくに大きな編成のスコアを書く際、参照したいページの画像表示にもたつくような現在の能力では問題が大きすぎる。演奏を聴きながらスコアをめくっていって追いつく程度の画像表示速度がなければ、モニター画面でスコアを見るということは成立したとは言えない。
しかも、参照したいのは、前後のページだけではない。何10ページか前後のある個所をぱっと見たいのだ。何小節目ということがわかればすぐ開くことができるようになっているだけでは不充分だ、パラパラとスコアをめくってあるモティーフが登場している数ヶ所のオーケストレーションを見比べたいといった要求に応えてもらわなければ、紙に書かれた楽譜の代用にはならない。
ウインドウズを複数開いたとしても、スコアの各ページを前面表示できる面積がモニターにはないし、表示速度も追いつかない
パート数の少ない短い作品の場合大きな不自由はなくなってきてはいるが、とくに大きなスコアの作成の場合、全パートが表示しきれない、わずか数小節しか見渡すことができないというモニター画面の限界は大きなネックとなっている
私の場合、小編成の作品や、スケッチの作成には、コンピュータを日常的に使い、オーケストラ作品などでは手書きでスコアを書いている。

 柴田南雄が楽譜作成にパソコンを使うことにまだ踏み切れない理由を述べている文章がある。「音楽 にしひがし」(青土社刊)に収録されているエッセイで、もともとは「音楽鑑賞教育」という雑誌の巻頭に1990年から1993年にかけてかかれたものとのこと。
「OA化する書斎」というエッセイで、1983年以降原稿を完全にワープロ化したこと、原稿や楽譜をFAXで送ることに触れ、これを「過渡期の中間段階に過ぎない」と述べ、さらに以下のように書いている。
「たとえば、手元のマッキントッシュで作譜して、パソコン通信で先方のフロッピーに送り、先方でプリントアウトする方法は今だって、やってやれないことはない。だが現状では、譜面づらの形状が紋切り型に過ぎて不便なのだ。楽譜のパターンがもっと自由に選択できないと不可能だ。」

 第2に、手書き楽譜の特殊な価値
・手書きの楽譜というもののある種の精神性や、自筆の筆跡がもつ単なる記号以上の伝達力の重視。
・音を聴くということを、非常に繊細な触感的なものとして強く意識していることからくる、デジタルな記譜への抵抗感と不信。
・自筆楽譜をいわば自筆の聖典のように扱うクラシック音楽の精神性。
 クラシック音楽の演奏は、過去の大作曲家の楽譜を解釈、演奏するという行為の比重が、極めて大きくなったことから、作曲家の自筆楽譜が、いわば一種の「聖典」として特別な精神的価値をもつものとなった。
ポピュラー音楽や、とくに即興性の高いジャズにおいては、楽譜はいわば、パフォーマンスのための事前打ち合わせを記したものであり、コード進行と素材となるメロディが記録されたものであり、重要なのは歌い演じる、その声、音であって、楽譜そのものがクラシック音楽のような忠実度を要求する絶対的基準、演奏家の精神的目標となっているわけではない。
クラシック音楽においては、例えばモーツアルトやベートーヴェンの自筆楽譜は、いわば聖典の原本として特別な位置にある。
オークションで大作曲家の自筆楽譜にとんでもない高値がつく理由も、そもそもはこれに起因するものだろう。
 その影響からか、クラシックの作曲家も自分の精神活動の証としての自筆楽譜を残すことへの特別な思いをもっているように思われる。献辞など書いて誰かに捧げたりする。コンピュータによる作譜だと、単なるプリントアウトしか残せない。
少しばかり昔、さかんにあった、ワープロについての論争。手書きとワープロで文章の精神的価値が変ってくるのかという論争、ワープロだと「文章に魂が入らない」という言うようなことがさかんに発言された時代を思い起こさせます。

作曲にコンピュータを使う

コンピュータが可能にするもの

  私は、作曲にパソコンを使います。文章を書くのにワープロソフトを使うのと同じ理由です。手書きの場合、楽譜を作成するという部分に、かなり時間と労力がかかりますがパソコンを使えば、この部分が若干軽減されます。慣れればワープロが手書きより早くなるのと同様です。美しく、行間のニュアンスのより伝わる自筆譜が残らないということで未来のオークションには貢献できませんが、それを補うメリットがあります。実音で一旦スコアを書いてから、一気に移調楽器のパートを移調し、パート譜もすぐに作成できます。後からの推敲や、別バージョンの作曲の際も、柔軟に対応できます。鍵盤の押さえて音高を指定し、テンキーで音価を指定する方法をとっていますので、思考の過程としては手書きと大きな違いはありません。旋律を書き取る場合、ほとんど実際の演奏速度と近い速度で音符を書いていくことができるので、即興的な長いパッセージも思いつくのとほとんど同時に記録していくことが出来ます。即興的新鮮さを保ったまま試行錯誤の多くのスケッチを、ひとまず音符にして、比較検討していくことができます。
 また、自分でピアノを鳴らしてみるのだけでは効果が確認しきれないポリリズムや多声的なあるいは重層的な重なり合いなどの着想をシミュレーションとして音を鳴らしてみて効果を確認することも出来ます。鳴らして実際に確かめないと最終的な効果が確認できないアイデアというものがあったとき、無責任にとりあえず書いてしまうということは避けたいと思います。作品として具体化あうることをあきらめるか、コンピュータでシュミレートして採用するかという選択肢があれば私は後者をとります。
 高い演奏技術や高度に訓練されたソルフェージュの能力がある場合、このような問題は発生しないのかもしれませんが、私のような者の場合には切実なことです。
パソコンは、こうした技術的ハンディキャップを埋めてくれる手段です。それどころか、両手の指を失ってしまうなどのハンディキャップを持った人でも、パソコンを使えば和音を確かめながら作曲することが可能です。

手書きとワープロとの論争があった
 文章を書くことについても、一頃、手書きが良いかワープロでもかまわないかという論議が、ずいぶんありました。手書きの方が、より内容のある人間的な味わいのある文章を書くことが出来るという精神論がかなり強く主張され、ワープロ文書の無味乾燥さを強調する意見が出ました。
 手書きは、肉筆の「書かれた紙」という美しい副産物を残してくれるメリットがあります。この「書かれた紙」そのものを最終的芸術作品にまで高める「書道」というものもあります。だからといってワープロで書かれた文章そのものが無味乾燥で質の低いものになるというわけではありません。実際、例えば、手の不自由な人がパソコンを駆使して入力した文章がパソコンを使ったことによって何らかの質の低下を起こしているかといえば、決してそんなことはないと思います。
 パソコンは鉛筆より複雑ではありますが、ただの道具です。その道具を使うことで、精神的創造力を削がれてしまうほど人間はちゃちなものとは思えません。パソコンは慣れると自転車のようなものです。人力でしか動きませんが効率よく前へ進ませてくれることもあります。
ある数学者が言っていました。パソコンが複雑な計算の実行をやってくれるようになったので、思いついたアイデアや解決法によって、どのような結果を得られるのか容易になり、数学的想像力を自由にはばたかせることが出来るようになった。

作曲の道具としての、現時点でのハードとソフトの問題点
私は、先にも触れたパソコンのモニター画面の不自由さや、情報をステレオタイプ化し単純化してしまうマイナス面・・・(テンポが機械的に設定される。楽器同士の共鳴などの重要なファクターが欠落するなど)・・・を理解しつつであれば、使えるものは使えば良いと考えています。
 パソコンやソフトの性能の問題で、手書きの方が有利な作業については、今も私は手書きで楽譜を書いています。大きな編成のスコアの場合、モニター画面に表示できる範囲が狭すぎること、他のページを参照するときの不便さ、画像表示に時間がかかることなどの理由により、現時点ではパソコンより手書きが優れています。一方、小編成の作品、オーケストラ曲のスケッチ段階には、パソコンを日常的に使用しています。

コンピュータの使用と音楽の質

演奏でのコンピュータとシンセサイザーの使用の場合
 MIDIでコントールされ、シンセサイザーを音源とした音楽演奏の多くは、まだまだ豊かなニュアンスと情報量に欠け、一回ごとのパフォーマンスとしての新鮮さに欠けています。生演奏の場合、音楽の内容は、全て演奏者の意識に「記述できるような形」で把握されているわけではありません。
生演奏の音は、演奏者の肉体的特徴、身振りの個性、その日、その瞬間の精神状態、体調などまでが、無意識な部分までを含めて反映されています。
あるテンポで弾くとしても、機械的なテンポではなく、拍の長さ、抑揚も、常に微妙に変化しつづけます。歌であれば、声域ごとにその歌手の声質がかわり、呼吸も変ってきます。これらの膨大な音楽的メッセージを意識化しデータとして入力するということは、事実上不可能な作業です。
音楽のパフォーマンスにおける一つ一つの演奏の音の豊かさでは、現在のコンピュータとシンセサイザーはアコースティックな生演奏に及びません。
データとして整理して記述する入力方式では、生演奏に匹敵する音楽的内容をインプットすることは不可能と言えるでしょう。
 タッチの個性、身体の動きなど無意識に発せられるものまでを含んだ音楽的情報のリアルタイムでの反映や記録、サンプリングなどといったインプットの方法の変化と多様化、生演奏では実現困難な音の組み合わせの実現手段として駆使する自由な作曲のアイデアといったものにより、単なる生演奏の代用ではないものとしての発展が、コンピュータによってコントロールされた演奏の独自の価値が生まれる条件でしょう。
作曲の場合
 譜面の作成手段としては、そもそも西洋音楽の楽譜という記号がデジタルな性格をもっていること楽譜がグラフィックなものであるということから、ソフトとハードの改善が進めばほとんどワープロによって文章をかくことと変らず、楽曲の価値を左右するものではない。
 作曲中にMIDIにより音を確認できるということは、ちょうど絵を描く人が常に描かれつつある自分の絵を常に目の前に見ながら手直しをしていくことができるように、作品の仕上がり具合や全体の効果を確認しながら作曲が進められることは大きなメリットです。「コンポーザー=パフォーマー」である作曲家には常にこれが可能でした、しかし作曲と演奏の分業化により、演奏前の作品完成度への不安は作曲家にとって大きなものになってきました。オーケストラ作品などはオーケストレーションの具合を試しに鳴らしながら作曲をすすめるという贅沢は不可能です。
 経験豊かな熟練した作曲家でもオーケストラ曲の鳴り具合と全体の効果は、演奏してみないと完全にはわからない部分があるといいます。大編成の作品の演奏機会が頻繁に得られる現代作曲家はわずかです。このことが、大編成の作品を作曲する際の作曲家の不安と、作曲家の技術的未経験への演奏者の不満をしばしば引き起こします。コンピュータとMIDIは、このような障害を部分的なりとも解消する技術的サポート手段として、作曲水準のレベルアップに積極的に活用できるものです。
 もちろん、従来の楽器演奏では不可能であるような音楽構想を実現する手段として、さらに積極的な可能性をコンピュータに担わせることも出来ます。
コンピュータはインプットの質を忠実にアウトプットに反映する
 コンピュータは人間が入力した情報しか反映しません。単純に一つのテンポを指定したとすればそのとおりに実行します。コンピュータが貧弱なアウトプットしか産み出さなかったすれば、それはパソコンに入力し実行させた人間が、貧弱な命令をコンピュータにしただけのことで、パソコン自体に責任はありません。人間の責任です。

脱線ですが、余談
ヤニス・クセナキスが、1956年から1962年に作ったコンピュータを使って作曲した「確率音楽」の作品、”St/10-1,080262"というタイトルのものがあります。
「クラシック音楽作品名辞典」(三省堂刊)を見ると、1962年にIBMのフランス本社で初演された10の楽器の為の音楽で、タイトルはコンピュータで得られた日付だそうです。完全にY2K問題ひっかかってますね。

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