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「演歌」が低迷しているとすれば、何故か?

「なぜ、演歌は低迷しているのか。」という質問をいただきました。
 「演歌」の音楽としての内容が低迷しているか否かは、とても、主観的なものがはいるので、それには触れず、「演歌」を聴く人が減った、売れなくなったというマーケットの縮小があるとしてその理由をいくつか考えてみます。
「演歌」を聴く人が減ったと仮に調査結果の数字にあらわれたとしても、その内容は2つの場合が考えられます。

想定1・・・今まで「演歌」を聴いていた人が他の音楽へ移った。
想定2・・・「演歌」が聴かれる場そのものが減った。

私は実情は想定2の状況かと考えています。
音楽の好みというものは、比較的若い頃に身についたものが基本的にはそのまま保たれていく場合が多いかと思います。かっての舟木一夫のファンが、今でも舟木一夫のファンであり、かっての荒井由美のファンがそのままユーミンのファン層として、さだまさしのファンの世代がさだまさしのファンで有り続け、ビートルズ世代がそのままビートルズファンとしてそれぞれ年齢を加えていっているというケースが多いのではないのでしょうか。
言いかえれば「それぞれの音楽はそれぞれの世代にくっついている」という面があると思います。

「演歌」を10〜30歳代前半で自分の音楽とした世代のヴォリュームゾーンは、現在、60〜80歳に差しかかっていると思われます。ほぼ定年退職の世代から上の年齢層になってきています。
この人たちの音楽の好みそのものは、とくに大きな変化はなく「演歌」が好きだった人はやはり今でも「演歌」が好きなのではないでしょうか。「演歌」を愛してきた人がポップスに鞍替えして離れていったとは考えにくいと思います。

では、何故、「演歌」が聴かれる流通量が低迷するのか。
これは「演歌」が聴かれ歌われる場の減少から考えられそうに思います。

・「酒場」「カラオケ」・・・これらはこの世代にとって、基本的に仕事の後に寄り道する場所です。
勤めの帰りに同僚などど一杯飲んで「演歌」を歌っていた世代が、退職すると、すっかり「酒場」や「カラオケ」からすっかり足が遠のいてしまいます。

・AMラジオ・・・営業、外回り、運転中、自動車通勤。仕事中に外で聴くメディアとしてAMラジオは大きな位置を占めます。深夜の高速を走る長距離トラックとAMラジオから流れる八代亜紀や都はるみはなんとしっくりくることでしょう。
AM放送の音質そのものも、クラシックやPOPSには不向きで、一人の歌手の声に内容が集約される演歌に有利にはたらいている面もあります。
 しかし、AMラジオを仕事中に聴いていた世代が退職し、在宅するようになるとTVへシフトします。TVへシフトすれば、自宅でCDやラジオであらためて音楽(演歌)を聴くという能動的行動を起こす人は、一部分になってしまいます。
 より若い世代はラジオではFMでポピュラー音楽を聴くことが多いと想像されます。

もうひとつ、演歌が押され気味な理由としてレコード会社など音楽産業の経営上の理由もあるかと思います。
人口比では「演歌」ファンの数は今もPOPSファンに匹敵するかと思いますが、実際のCDの販売枚数からすると、J-POPのヒット曲の売上枚数ははるかに巨大です。これは、「演歌」世代の一人あたりCD購入枚数と、若いJ-POPSファンの一人あたりCD購入枚数が大きく異なるからと考えられます。
自宅のTVで演歌番組を見たりどこかの店で演歌を歌うだけの人よりも、CDを何枚も購入するPOPSファンを相手にした方が、レコード会社は儲かるでしょう。

まるでビジネスのマーケティングの話しになってしまったので、音楽そのものへ話しを戻します。

クラシックや他の音楽を好む人が「演歌」を嫌う理由として何が考えられるか。

私の個人的な推測ですが、これは「演歌」のもつセンチメンタリズム(感傷)と、自己憐憫を嫌うからではないかと思います。
あるいはまた「酒場」など仕事づきあいの延長を連想させることが、仕事や会社から離れた個人的場所(プライバシー)を確保したい人に嫌われる理由かもしれません。

クラシックやジャズのファンが、「演歌」以前の「邦楽」「歌舞伎」「雅楽」「能」といった伝統的な日本の古典芸能を「演歌」を嫌うような意味で嫌っているということはないように思いますので、「日本的なもの」「伝統的なもの」そのものを嫌っているわけではなさそうです。
私が不思議に思うことは、正調の日本民謡など演歌以前の日本の音楽には「演歌」的なセンチメンタリズムがほとんど感じられないことです。むしろ、あっけらかんとした明るさであったり儀礼的無名性が特徴で、個人的感情吐露は希薄なように思われます。

 「演歌」には、いわばプライドを捨てて赤裸々に恥ずかしげもなくセンチメンタリズム(感傷)と、自己憐憫に開き直っておぼれる音楽、自分の状況への愚痴を託すような歌という傾向が強く、このことが、それを潔しとしないプライドの高いタイプの人に嫌われる理由の一つなのではないかと思います。

 これと同じ構図がクラシック音楽の中にもあります。
バッハやベートーヴェン、モーツアルト、ドビュッシー、ウェ―ベルンなどの古典的あるいは知的に構築された意志的な音楽を最高と考える人が、チャイコフスキーやラフマニノフ、プッチーニ、ヴィラ=ロボスなどの感傷的なまでの直接的感情表現を、一段低く見ることがありますが、これなど、似た構図かと思います。
よく演奏会批評などで見かける「感情に溺れない抑制された演奏」という肯定的コメントは、この価値観の表れでしょう。
 「演歌」の中で、八代亜紀や美空ひばりなど、感傷と自己憐憫をあまり前面に出さない歌手が、クラシックファンやジャズ、ポップスファンにも比較的支持される傾向があるというのも理解できるところです。

この他、感情の持ち方として「演歌」的な心情に共感を覚えないという場合の理由は、千差万別あるでしょう。

実際にはジャズやラテン音楽世界各地のポピュラー音楽においても、演歌に近いタイプの感情表現の音楽はあり、たとえばメキシコのポピュラー音楽には女に逃げられた男が嘆くばかりの哀れなナンバーも多いのですが、言語の違いで歌詞を生々しく感じないで済むことや、活力あるリズムとハーモニーの中で、音としては一見明るいものに聞こえるものが多いこともあって、「演歌」ほどの直接的には感じることなく平気で聴いているのかもしれません。
 ブラジルのポピュラー音楽など、音だけで聴いている限りはとても明るい洒落た音楽のようでありながら、歌詞の意味はあまりにも悲惨な社会状況や生活感情をもったものが多くあります。歌詞がすべて耳から理解できたとすれば、その聴衆層は今と少々違った構成であったかもしれません。ジャズやラテン音楽を洒落たBGMとしてのみ聴いている人はその赤裸々な感情表現に気付いたなら疎ましく思うかもしれません。

 また、あえて多くの例外はあることを承知で言うなら、「演歌」のナンバーの多くには現状を嘆きながらその哀感に溺れて、社会への意志的な変革意識や問題意識と思考を停止したような、いわば体制側に便利な弱者のガス抜きの娯楽という側面があることは、変革的思考と行動を目標に掲げる意志的価値観の人には居心地の悪さを感じさせる要素になっていると思います。進歩的思想をもっていると自負するインテリ層が演歌に抵抗を感じる理由の一つではあるでしょう。

もう一つの理由。若い世代の音楽聴取の西洋音楽化、5線譜化
「演歌」は歌手が演じる声といういわば楽譜に書き表せない部分が音楽の最も重要な内容となっている音楽。西洋音楽的に分析すれば和声は貧弱だし、単旋律の音楽で、転調などもなくて音階は単純、とくに伴奏の厚みには乏しい場合が多い。ハーモニー重視の西洋音楽の中で育ってきた世代は、西洋音楽的な意味での和声の単純さ、5線に書いたときの旋律やリズムの重なり合いの単純さなどに不満を感じる。
逆にいえば、西洋音楽的聴取をするために、歌手の声質の使いわけ、楽譜に書くことのできない、自由な節回し、コブシの聞かせ方といった「演歌」のキモ、西洋音楽の5線譜に書くことのできない部分を聞き逃して、重要でない部分に耳の注意を向けて不満を感じているという状況もあるかと想像します。

2000年6月11日
近藤浩平

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