山の作曲家、近藤浩平 トップページへ戻る

クラシックファンは排他的か

ある音楽BBSで、クラシックファンは、クラシック音楽以外の音楽に対し排他的すぎるのではないか。もっと、他の音楽に耳を傾ける幅の広さがあったほうが良いのではないかという提起があり、クラシックファンのジャンルへの優越感や偏見、あるいは教養主義に触れるもの、実際は排他的ではないと反論するものなど様々な発言があった。

クラシックファンは排他的かそうでないかという、一まとめにした議論は無意味だろう。
排他的なクラシックファンはいるし、排他的でないクラシックファンもいる。他の音楽を聴くがたまにクラシックも聴くという人もいる。クラシックファンと一言にまとめても、聴く範囲は人さまざまだ。このBBSにへの私の書き込みを少し書きなおして載せておく。

排他的という言葉は、受け入れてもらおうとする側が、拒否されたときに相手に対して使う言葉だ。
演奏家が新しい作品をプログラムに入れようとしたのに、プロモーターや聴衆から受け入れられなかったら、排他的なクラシックコンサートのプログラミングの現実を感じるだろう。
クラスで唯一のクラシックファンの少年が、クラスのJーPOPファンから仲間はずれにあえば、排他的だと感じるだろう。
現代の作曲家は、古典以外を演奏しようとしない演奏家、古典以外聴こうとしない観客を排他的だと感じている。
 私もクラシックの演奏家に作品を見せたりすることがあるが、そんなとき、なんて許容範囲の狭い耳の持ち主なんだろうとか、20世紀につくられた音楽(クラシック以外ももちろん)について、よくもまあ、こんなに無縁のまま音楽生活が出来たもんだと、純粋培養に関心してしまうような人っていますよね。

無関心と無視と排他的の間
もともと、クラシック音楽ファンは排他的な面があるのでは、という問いがBBSにあがった最初の発言の意図は、クラシックファンも時々は、クラシック以外の音楽に素直に心を開いて耳を傾けてみる時間をもってみたらどうかなという呼びかけだと私は感じたのですがどうでしょう?そうであるとすれば、現実にクラシックファンが排他的かそうでないかという議論のやりとりはたいして意味がない。
クラシック以外に興味がある人からの「排他的だ」「敷居が高い」という印象と、クラシックファンの「単に、この音楽が好きということだけで他の人への排他的な気持ちはない」という自己弁護がぐるぐる廻っても、大して得るところはなさそうだ。

ゆるやかな排他性
排他的という言葉は刺激的なために、「私は排他的じゃない、偏狭じゃない」と皆が持っている倫理的プライドを刺激してしまうところがありますね。排他的というと、何か、他のものに対して攻撃的で圧迫を加えるようなニュアンスが加わってしまいます。
でも、排他的で熱狂的なファンだからといって、周りの同調しない人に干渉するというまでいくのは極端な例外でしょう。ここでは排他的という意味を、クラシック以外には無関心というゆるやかなレベルまで広げて考えてみても良いように思います

「悪意なき無関心」のすぐ隣りにある「疎外・排他」
“単に知らない、無関心であること、興味が無い、受容しないとうこと”と、“疎外したり無視すること=排他的であること”は、境目のはっきり線引きできるものではないですね。紙一重か表裏一体とも言えると思います。
その境目はどこだということは明確には言えないですね。
第3者に直接排他的に振舞うことは稀なことで、疎外というのは、単に悪意なく無関心・無行動であるだけで生まれてしまうもの、結構、努力して、自分の受容範囲を広げようとしないと、結果的には、外から見て排他的になるいうことがあるように思います。
悪意なき無関心で、結果的に疎外を生むという状況は、社会でもよく起きていますね。

排他的でないということにはエネルギーが要る
排他的ということは、受け入れてもらおうとか関心を持ってもらおうと働きかけた側が、無視されるなり関心をもってもらえないという状況ででてくる言葉で、なにも具体的に圧迫したり排除したり妨害しなくても、受容しない、聴かない、聴く前から無視するというだけで、相手にとっては排他的ということになってしまいますね。
排他的でないということは、とても困難な努力がいることです。
なんせ、もともと自分の興味のない話に、耳を傾けてあげなきゃいけないんですから。

ところで、創造的集中のためには必要な時もある排他性
話の流れが変わりますが、特定のものに夢中になると、他のものには無関心さらに排他的に結果的になるものですね。
「私にはこの人しかいない。絶対ほかの人じゃ嫌だ」と、思いつめるなんてのはよくある事で、こういう場合、排他性がなく浮気性だとこれまた問題。端から見ると「他にいくらでもいい人がいるのに、なんであんな奴と?」と不思議だったり。
「恋をしている女性」って3番目の男には排他的なもんです。(あたりまえ)
だから、あることを成就しようと集中するために、必要悪(?)として避けられない、排他性もありますね。
音楽を聴いたり作ったりする場面で、他のものに目もくれず、特定のものに集中するということは、時に必要なことで、それが無ければ、誰も、スペシャリストになれない。
排他的とか、興味が絞り込まれていること、結果的に排他的であることが、いつでも悪いことではない。ただその状況でも、その関心の外に広い世界が広がっていることは忘れてはいけないですね。

ジャンル擁護を意識する「クラシックファン」と、特定のアーティストのファンになるポピュラーファン
クラシックファンというのは、ジャンルを愛するという点で、特徴がありますね。クラシックという範囲の中では、バロックから近代まで。オペラからピアノ曲まで、またいろいろな作曲家の曲をいろんな演奏で聴き、コレクションするが、それ以外の音楽には無関心という愛好パターンの人が比較的多いのは特徴的ですね。
自分の愛好する「ジャンル=クラシック」の範囲を強く意識する傾向
 これが、J-POPのファンなら、J-POPというジャンルそのもののファンという形をとるより、むしろ誰々のファンということが先に来ますね。自分の好きな特定のアーティストのファンであって、ジャンル全体の擁護を意識するということはあまりしない
特に歌謡曲では、1曲あるいは特定のアーティストがブームになればそれを一定期間集中して聴き、飽いた時に別のものへ移るというありかたが顕著。
古今の名作を幅広く網羅するように蓄積しコレクションするというような、ピーター・バラカンのような有り方は、ポピュラー音楽ファンの中ではむしろ少数派のようだ。一方、ジャズ・ファンのコレクション趣味は、クラシックファンと似たところがある。

同時代に対し排他的なクラシックファンと排他的でないクラシックファン
 クラシック好きの中で、古典派やロマン派は聴くが、20世紀ものは苦手という方がいますね、モーツアルトかベートーヴェンあたりは好きだが、ラヴェルやドビュッシー以降ストラヴィンスキーやシェーンベルク、ベルクやミヨーやヴィラ=ロボス、アイヴス、プロコフィエフ、ヴァレーズ、プーランク、武満などは苦手、現代のベリオやライヒ、フィリップ・グラスやシチェドリンなどは一切聴かないというクラシックファンっていますよね。
 演奏会はブラームスやベートーヴェンの既知の名曲なら聴きに行くが、ストラヴィンスキーなど近現代もの、とくに、聞いた事のない現代作曲家の名前が入っていると一切行かないという行動をとる人。プログラムに近現代ものが入っていると嫌だという人。近現代ものは「猫に小判」でコンサート前半曲目をパスしたりロビーに出たりする人。
オケの定期では、曲目によって客数が増減するから、近現代物をやる時の観客減少分は狭い範囲のクラシックだけを愛好する層と推定されます。(大フィルの定期会員などにかなりいるのではないかと私は推定している。なんで岩城さんや秋山さんが素晴らしいプログラムを組んでいる演奏会の方が、練習済み惰性演目の持ちまわりの演奏会より客が少ないんだ?)
 近現代ものが苦手というクラシックファンは、耳の好みというか、許容範囲が狭くて結果的に排他的な音楽の好みをもっている、未知のものをなかなか受け入れられない感性をもっているように感じさせられることはしばしばですね。ヴィラ=ロボスが好きでバーデン・パウエルなどラテン音楽が嫌いだとか、武満やコリリアーノが好きで現代の映画音楽が嫌いだとか、ライヒやグラスが好きでプログレは絶対聴かないという人はあまりいそうにない。でも、モーツアルト以外は聴かないとか、ショパンやベートーヴェン、ブラームスなどの古典・ロマン派以外はレパートリーに一切容れない保守的なクラシック演奏家などが排他的というのは、外から見るとやはり言えるのではないだろうか? あるいはオペラ・ファンでモーツアルトからヴェルディやプッチーニまでの有名演目しか興味がないという人も、興味の範囲が限定されるという点で、結果的に排他的な音楽生活を送っているとやはり言えるのではないだろうか。
特定の範囲のものに限定的に夢中になる人は、結果的に周りから見ると排他的だ。
ある程度、クラシックファンには「同時代のもの=自分の生きている現代」に対して排他的な傾向は見られるように思う。一方、「現代音楽」の「主流」にも、20世紀の「前衛的」でない作曲に対して「排他的」な傾向は感じられることがある。

特定の歌手だけを夢中になって追いかける「追っかけ」よりは、少し範囲が広いだけましかもしれないか?・・・。

近現代音楽を聴く人と古典・ロマン派を聴く人
上の項目を書いたら、古典派やロマン派が好きで、近現代は聴く気がしないとかいうのは、個人の興味の方向性の問題で、近現代音楽ファンか古典派・ロマン派ファンかということと排他的かどうかということには関係が無いという反論をいただいた。

確かに19世紀のある音楽と20世紀のある音楽とどちらが好きかということと排他的かどうかということは、直接関係無い。しかし、どれだけ多様なものに音楽として耳を傾けようとする関心を持てるか、どこまでの範囲の様式の音楽を音楽として受容できるかという許容範囲の広さの面から見れば、はっきりしていることがある。

現代音楽や近代音楽が好きという人で、19世紀以前の音楽は、全然聴きません、わかりませんという人は、およそ出くわしたことがない。現代物のスペシャリストみたいな演奏家とか作曲家でも、たいてい古典への造詣は見事な人が多い。
ところが逆に古典。ロマン派など19世紀音楽に造詣の深い人、古典・ロマン派だけをレパートリーにしている演奏家で、近現代ものはわからないという人はたくさん出くわす。

これは当然で、20世紀の音楽は、18世紀以前や19世紀の音楽を前提に生まれているが、
19世紀以前の音楽は、未来の音楽を前提にしているわけではない。

ベルクの良さが味わえるということは、シューベルトやマーラーの良さもわかるということ。
ヴィラ=ロボスが好きなら、きっとバッハも好きででしょうし。
でも、逆はいつでも成立するとは限らない。
シューベルトが好きでベルクが聴けない人はいるが、ベルクが好きでシューベルトが聴けない人はあまりいないでしょう。
ベリオのシンフォニアを聴く現代音楽ファンで、引用されてされているベートーヴェンやマーラーやドビュッシーを聴かない人はあまりいないが、
ベートーヴェンやマーラーを聴いている人で、それがベリオによって引用されていることを知らない人は無数にいる。

近現代音楽ファンで古典派・ロマン派に対してほんとに排他的な人はあまりいないんじゃないかと思います。
(知っていて反発している人はいるが)
でもその逆はいっぱいいる。

その時点の趣味で近現代と古典とどちらが好きかという前に、耳の受けいれる許容範囲という音楽受け入れの敷居の問題がでてくるのでしょう。

興味の幅を広げることは金がかかる?経済力とレパートリー
排他的にならず、いろいろ興味を広げようとしても、実際には行けるコンサートの回数や、買えるCDの数が経済的にも限られることので、結果として聴くレパートリーが狭くなっているのではないかという意見がありました。
確かに聴いてみたいものが増え、お金がかかってくるのは否定できません。
ただ、このことと、かなりのクラシックファンが非常に狭い範囲のレパートリーにしか興味を示さないほとんど排他的ともいえる趣味の狭さに留まっていることは、現代日本のクラシックファンの一般的生活水準ではあまり相関関係はないように私は思います。

実際NHK-FMで聴いたら安くつきますね。お金のない「学生」のとき(最初変換したら「楽聖」と出た)、大学図書館の視聴覚室とFMのエアチェックで済ましておりました。
また、年間に行くコンサートは、ハガキで無料入場整理券を請求する「民音現代作曲音楽祭」とかの類。

有名名曲はFMなどで済まし、なかなかかからない曲だけCD入手という方針でしたので、最近までなぜかベートーヴェンなどのCDがあまり家になかった。
ところが、古典の楽譜は、亡くなった中学時代の恩師の黄色くなった遺品をどっさり棚いっぱいに頂いて揃っている。

新譜の有名あるいはレコード会社売出し中の新進J―Claccic演奏家CDは高いが、輸入盤のバーゲンで3枚1000円で売りに出されている現代物もある。(シュトックハウゼンの近年のものは高いので持ってない)

コンサートは来日有名オーケストラ、有名巨匠演奏家ではなく、大阪センチュリーの定期の3階席C席2000円で近現代物のあるときだけ狙ういかいったのが定番。(ヴィーン・フィル何回分?)
ちなみに昨日の私の場合。
昼・・・もらった招待券で池田満寿夫展を鑑賞。
夕刻・・・もらったチケットで本名徹次氏指揮の芦屋交響楽団の定期。
曲目は、ヴェーベルンの「夏風の中で」、ベルクの「管弦楽のための3章」、ツェムリンスキーの「人魚姫」・・・・すごいプログラムだ!

外来オケでも、ドイツやアメリカのメジャーは高いが、アルゼンチン国立とかザグレブ・フィルとかBBC響などのほうが、
プログラムも近代物が多くてチケットもまだいくらか安い。
メジャーオケとか、巨匠の演奏会では高そうな服を着たリッチそうなおばさまやおじさまが多いが、
近現代もののコンサートの天井桟敷は、管楽器をアマオケや吹奏楽部でやってそうなあまりリッチではなそそうな若者が割合多い。

有名名曲の同曲異演をいくつも聴くのと、近現代ものをぽつぽつ聴くのと、予算的には大きくはかわらないように思うので、クラシックファンの中で、有名ブランド指向の人と、近現代ものが好きだという人と経済力の相関関係はあまりなさそうですがどうでしょう。
レコードが家に数枚しかなくて擦り切れるまで聴くしかないという経済状況が個人のレパートリー限定の理由になっているという例は少なそうに思います。

ところで、有名ブランドオケや有名オペラは金持ちクラシックファンが多く、「現代音楽」は貧乏インテリの音楽だという説をどこかで言っていた人があったような・・・

2001年9月9日 近藤浩平

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