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評論と知識の存在意義/音楽・自然に接する視点

評論の存在意義
音楽や美術の評論に、どれだけの存在意義があるのかという議論があります。

評論は、あるものへの視点、着眼点のヒントを与えるものとして意義があるのではないかと私は考えます。

 音楽は、個人が本能だけでつくりあげるものではなく、住んでいる社会の価値観、状況、
経済やテクノロジーの発達、継承した音楽表現様式・・・・様々な影響がからみあって
その人の音楽の位置があるものです。文化、社会、様式などの状況を理解することは
その音楽の必然性を理解し、共感するためにはとても意味のあることと思います。
その音楽が生まれた状況を知ることは、視点と着眼点の発見への手掛かりとなるのです。

自然を見る視点
 たとえば、都市で生活し、森林について何の知識も問題意識もない人が、ある休日にドライブで、どこかの山の中のダム湖と整備された自然公園を訪れたとします。
「ああ、緑の中は気持ちいいいなあ。自然はいいなあ。」と漠然と爽やかさを感じ、「空気もきれいで涼しくて、周りは緑がいっぱいで爽やかだっただし、施設も整っていて立派、交通も便利、危険もなく歩ける歩道も快適だった、湖面も美しい。ただ、さすがに休日で帰りに車がちょっと渋滞したなあ。」という程度の感想と記憶しか残らない場合がほとんどでしょう。

 ところが、自然や状況について、なんらかの関わりをもって生活している人と会話したり、評論やニュースなどからの予備知識、ささやかなりとも一般的な状況認識、生態系や経済などについての知識と知恵をもっていたなら、同じ場所を訪れてもはるかに多くのことに気付くはずです。
植物、鳥類、動物、地質、地形、あるいは山菜、木の実、花、昆虫…
山の中の生活文化、炭焼きや木地師、街道の抜け道だったりした歴史、そういった多くの視点をもつことで、同じ場所を訪れてもそこから受け取るものははるかに多くなります。
どんな木があり、どんな鳥がいたかを意識するだけでも、受け取るものの奥行きがぐっと深まります。地学の知識が少しあれば、地形を見ただけで断層や褶曲など地殻活動の痕跡を見いだすでししょう。地質の知識があれば土や石の色だけでも気付くものがあるでしょう。道端の祠やちょっとした石積みの形にその地域の宗教・風俗・山村形態などおおくの特徴に気付くかもしれません。

 こうした目の前に見えるものについての知識に、その背景ににあるものを考える意識が加わればさらに、見えてくるものは増えてきます。

 森林の木や草の種類はどうだったか?様々な木があったか?保水力の高い広葉樹林、雑木林であったのか、あるいは杉や桧の植林だったか?植林だったとしたら、枝打ちなど管理の行き届いた植林だったか?あるいは管理されずうっそうした植林で、日光が地面に届かず木の下の地面に草も生えない状況ではなかったか。
 これだけに気付くだけで、その森林の保水力、生態系の豊かさの状況が見えてきます。その場所の気象条件、積雪なども推測できます。以前に比べて森が変化していたら、原因は何でしょう。温暖化で雪が減ったり気温が変わって植生は変化していないでしょうか。排ガスや酸性雨に弱い植物が減少しているかもしれません。不自然な立ち枯れの木がありませんか?車道や自然歩道の開発で、森林の端の部分が直射日光にさらされ乾燥したりして木が弱っていませんか。

 植林は皆伐方式か間伐方式?皆伐されたままの斜面が崩壊したり、貧弱な草地などになっていませんか。あるいは植林地の地面が下草も生えない裸の地肌となって土砂が流出していませんか?植林は、雑木林・広葉樹林に比べ多くの場合、保水力が弱いのです。
 営林署や林業経営が、国内木材価格の低下で採算がとりにくい現況では、いままでのような木材の販売による短期的経済収支では森林を管理するコストが捻出できません。短期的収支での森林経営に任せていれば皆伐と自然林の伐採による森林荒廃を招き、生態系の破壊と自然災害の原因になります。過疎による労働力不足も深刻ですから、人工林の質が低下している山が増えました。

 里に近いところの雑木林。以前は、マキをとり炭焼きもしたので、適当に木が間引かれていました。ところが近年はブッシュ化して林の中に入ることができないほど密生しています。それぞれの木はとても弱り、植物の種類も減ってしまいます。里山の環境は人間の生活によって保たれています。
奥多摩など比較的過疎の進んでいない近郊の山が里山の景観を保つ一方、遠隔地の過疎の山地で荒れ果てたブッシュの山野、たとえば葛や蔓と茨におおわれた貧弱な林相の過渡期の山を目にするのにはこのためです。

 不自然な立ち枯れの木。例えば松枯れも排気ガス、酸性雨が原因と推測されています。ドライブで通った道路が原因かもしれません。日光白根山、大台ケ原、瀬戸内。不自然な立ち枯れにしばしば出会います。

 以前、生えていた山野草は今もありますか?貴重な植物の盗掘の被害はないでしょうか。
あるいは都会から来た人達が根こそぎ採る間違った採取法をとるため、激減しているかもしれません。山野草ブームがこれに拍車をかけています。園芸愛好者のあやしい山野草の流通を知っていますか。業者による盗掘が問題になっています。ガーディニングブームで凝ったロックーデンを作っている人は、本人は知らなくても加担しているかもしれません。

 ダム湖の下流の渓谷はどうでしょいう。不自然に水量が少なく、水も濁っていませんか?
取水口から下流では渓谷の生態系が深刻なダメージを受けていることがしばしばです。
放水の一時だけ大量の水が流れるので、荒れた河原が続いています。魚は遡上できるでしょうか。水質はどうでしょうか。水量の少ない川は自浄能力も低下します。

 ダムへ行く道路から谷間を見下ろしましたか?道路の左右や真下に崖がたくさんありませんでしたか?斜面に道路をつくると、道路脇にはノリ面という切り崩されたあとの斜面が出来ます。ネットやコンクリートで覆って崩壊をなんとか止めています。道路の真下の斜面はどうでしょう。道路を作ったとき土砂が谷間に落とされ崖ができています。
このように急傾斜地では道路の左右には崖が出来て、崩壊地となり土砂が流失します。
崩壊を止めるためコンクリートで固めたりや植栽などを行いますが、なかなか止められるものではありません。道路補修工事をはたしなく繰り返す間にも、土砂は谷間に流れこんでいます。
 理論上、ダムは土砂流出を止め、川の流速を遅くして、流水の浸食力をおとします。役所の説明でも土木工学の説明もそうなっているでしょう。
しかし、そのシミュレーションモデルはダム単体では科学的に見えても、ダムを作るための道路建設による土砂流出、あるいはコンクリートなど工事資材生産のための環境ダメージ(結局はどこかの採石場から来る。採石地の環境ダメージや土砂流出など。)といった全てをトータルした事業評価が実現されているとは思えません。

 ダムがあるということは水没地に何があったのでしょう。水没した村があったかもしれません。その人たちはどうなったのでしょう。都市へ移ってどういう生活をしているのでしょう。その村にあった文化はどうなったのでしょう。毎年、祭りで奉納していた芸能は消えてしまったのでしょうか。工芸品などの技術も、村とともに消えてしまったかもしれません。過疎だったのでしょうか。

 離村に当然抵抗があったはずですが反対はできなかったのでしょうか。賠償金で買収されてしまったのでしょうか。行政には声は聞きいれられず強制収用されてしまったのでしょうか。
ダムと公園施設整備と道路建設、維持に幾らの税金を使ったのでしょうか。
ダムは発電や利水上、防災上どれだけのメリットがあったのでしょう。電力は余剰で、水利権も売れていないなどということもありえます。そもそも豊かな森林があって流量の安定した川であれば、水質を低下させる貯水の必要性はなかった可能性もあります。

 防災上どうでしょう?森林の保水力向上のための過剰な植林地の広葉樹林化、流域都市部のコンクリート被覆率の制限、下流の堤防整備や川床の整備とといった他の手段、山中に道路をを建設してのダムと、どちらが費用対効果の面で有利であるか検討されたのでしょうか。
ダムはコンクリート寿命を考えて何年安全に維持できるのでしょうか。地震等による決壊の危険はないのでしょうか。寿命が来た時の補修あるいは解体費用はいくらでしょうか。
道路は年間どれだけの利用者がありメリットがあったのでしょうか?

 建設費用と維持費と環境負荷に見合うだけの利用価値はあったでしゅうか?夏の短い間、観光客が利用する程度で、まるで経済効果のない無駄になっていないだろうか。
土地収用や漁協への補償などにいくら費やしたでしょうか?あるいは地元の町の反対封じに、国や電力会社などから地域振興の補助金などの名目でいくらばらまかかれたでししょう。
建設費や補償金はどこへ払われたのでしょうか。代議士や町長の関係する建設会社かもしれません。この工事を推進したのは誰でしょう。下流の村は票田かもしれません。

 自然公園に都市公園のような西洋の園芸植物が植えてあるのは何故でしょうか。単に奇妙な悪趣味というだけでなく、野生化したりして在来種の生態系の悪影響を与える可能性もあります。

 もともと、森林であったところを伐採して、植栽している所も、どうして緑化事業となっているのでしょう?植樹祭会場など、もともと森だったところを巨費を投じて切り開いて、つくった会場にぽつぽつ木を植えているには何の為でしょう。
役所の緑化・環境関係費はこんな項目も含んでいると考えなければなりません。

 自然公園にオートキャンプ場まであります。車がこんなところまで入り、多くの人が、夜遅くまで、騒音や人工の光をまきちらして大丈夫なのでしょうか。トイレは環境汚染を起こしていないでしょうか。
都会をはなれた非日常を求めてキャンプに来たのに、どうして電源まであるようなキャンプサイトが必要なのでしょうか。荷物を担ぎ、焚き火をして炊事をするだけの生活技術さえ失ってしまっていいのだろうか。現代人の生活技術はどうしてこんなに脆いものになったのでしょうか。

 夜は星空が昔のように見えるでしょうか。山の中から空を見ると、都会の方向の空は夜中でも赤っぽく明るく見えます。星も見え難く、都市はもやもやとしたチリに覆われているように見えないでしょうか。
光害という概念さえ生まれている現代。派手なネオンだけでも十分明るい都市に、さらにライトアップという「アート」を文化的なものとして無制限に支持してもよいのでしょうか。
 
 キャンプ場には、虫もいないし、近くの川には沢蟹やザリガニも見かけないとすれはどうしてでしょう。蚊が少ないと単純に喜んでいるだけでいいでしょうか。農薬散布などがあるかもしれません。松枯れが問題になったときのような空中散布が行われたかもしれません。上流にゴルフ場があって農薬が大量に使われている可能性もあります。「環境に優しい企業」と称していながらゴルフ場開発に関わり、接待ゴルフに利用し、ゴルフイベントに協賛していることに企業の行動として矛盾はないのでしょうか。
 
知識と評論がもたらすもの
ぼんやりと、何も知らず、何も考えずに見ているだけでは、多くのことを見落としてしまうものです。
音楽や自然など、何の知識にとらわれず、あるがままを見て感動すれば良いという単純化された意見を言う人もいます。しかし、様々な人たちが、それぞれどんなことに気付いてきたのか。その視点に気付くことが、知識や評論がもたらしてくれるものなのです。
 自分一人で、それだけの視点を開拓することは、あまりにも遠回りです。
 
2000年6月11日記
近藤浩平 

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