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演奏家の完璧主義

新しい音楽への試行錯誤を封じ込める完璧主義

どんどん新しい曲を演奏したバッハ、ヘンデルの時代
現在のコンサートレパートリーは、演奏家が厳選されたレパートリーを暗譜し磨きぬいた演奏で取り上げる習慣になっています。毎週新曲をどんどん書いて毎週演奏していくような、バッハやテレマンの時代のようなありかたが失われてしまいましたが、なぜ、演奏家は新曲を演奏することに何故、こんなに慎重になってしまったのだろうか。
多少不完全なところがある演奏でも、完璧な傑作でない音楽でも、どんどん新しい演目をやってみる大らかさが、現代にももっとあって良いように思います。

古典演奏の完璧追求の裏にある臆病さ
バッハやベートーヴェンなど古典を完璧にマスターしてからでなければ、新しいレパートリーを次々てがけることは出来ないという演奏家がいる。
そんなことを言えば、古典以外のレパートリーを手がけることができる余裕のある演奏家なんてほとんど存在しなくなる。

古典を完全に自分のものと出来て、はじめて新しい音楽を手がけることが許されると言う人がいる。
それを厳格に言えば、ブクステフーデやモンテヴェルディを知らない演奏家がバッハを演奏しているのもおかしいことになる。
近代・現代作品あるいは、ヨーロッパ中心以外の地域以外の作品にレパートリーを広げるよりも、
古典を大切に繰り返し完璧に自分のものとして演奏しつづけることだけに一生を捧げると言っている演奏家の多くが、実は、現代作品や、ヨーロッパ音楽以外の音楽に対して臆病であるにすぎない場合が実は多いということは経験することだ自分の得意分野に閉じこもり馴染みの練習メニューを繰り返すことへの誘惑は強い。
まるで、自分が持っている旧来の技術・知識にしがみついて、時代が変わっても、同じ仕事のやり方を守ろうとするサラリーマンのようだといえばきつい比喩か。

一生モーツアルトかショパンばかりを弾いている演奏家が、たとえ、素晴らしいモーツアルトやショパンを弾いていたとしても、新しい音楽を試行錯誤しながら自分の時代の音楽を切り開いていこうとしている作曲家にとって、彼等は役立たずだ。(古典を楽しむ音楽愛好家としては彼等の演奏も楽しむが、作曲家の活動のパートナーとしては役立たないという意味で)。
モーツアルトの作品全てを暗譜している古典専門の演奏家よりも、色々な音楽を聴き、様々な音楽の楽譜を眺めては初見弾きをして読み散らかしているような演奏家を私は音楽家として信用する。
様々な音楽の100曲を知っていることと、一人の作曲家の作品100曲を知っていることでは、前者の方が音楽的経験として豊富だ。

お手本のない世界に乗り出すのことを怖れないでほしい。
新しいルートを辿る旅に完璧な旅程管理はあり得ない。


代表作への道のりを許せ
音楽作品名辞典などで見ると大作曲家でも非常にたくさんの初期作品や知られていない作品があり、かなりの部分が日常のレパートリーから消えていますし、わずか数曲の代表作しか一般には知られていない作曲家もたくさんいます。
はっきりと個性があらわれた成熟した作品を書き始めるまでずいぶんと凡作を量産した作曲家もいるようです。
こういうのを見ると非常にたくさんの曲が、誰かによって演奏され、ある作曲家が代表作とされる傑作を書くまでに、実にたくさんの曲が演奏され、また結果的には残らなかった膨大な数の中小作曲家の作品が演奏されてきた中から、現在のレパートリーが選ばれていることに気づきます。

「時代の淘汰」以前の現状
19世紀までは、新らしい曲をどんどん演奏して、それがちょうど今の芝居が次々新しい演目・演出・脚本で演じられるように、当たったり外れたり、一時の人気で終わったり、酷評されたりということが、(ポピュラー音楽では今もそうだが)日常の音楽生活の中で行われたのだろうに、現在、クラシック系の所謂現代音楽が、聴く人や演奏する人の大多数が無関心な「現代音楽祭」や「作曲コンクール」での一握りの専門家の中でのタイトルの贈りあいのようになっていることが多いのが残念です。

現代と無縁な一般レパートリーと、玄人向き現代音楽専門レパートリーの2極分解
また、例えば、アメリカのルー・ハリソンやアダムスやコリリアーノのようなおおらかな一般の聴衆にとって聴きやすい作風の人気作曲家が実際の国内の演奏会で紹介される機会はきわめて乏しい一方で、現代音楽として非常に緻密で知的で専門家うけのするブーレーズやフーバーのような作曲家が専門的な現代音楽演奏の場で繰り返し取り上げられるという現象は、現代音楽のシーンに、作曲側や現代音楽スペシャリストの演奏家のみが強く関わる一方で、一般の演奏家の主導で新しい音楽の紹介がおこなわれている場合が少ないためのように思います。
全く現代作品を含まない大多数の演奏家の一般レパートリーと、非常に専門化した玄人向きの「現代音楽」に2極分解する状況。もっと、中間的なものがあってよい。現代音楽に通俗名曲があっても良い、ファンの追っかけのある人気取り売れっ子作曲家がいてもよい。

作曲家は、もっと日常のレパートリーに入り込むことを目標に
日常の音楽演奏のレパートリーとして、ちょうどブラームスやベートーヴェンを演奏するように日常的に取り上げられるような演奏レパートリーを供給することを、もっと強く意識して作曲活動や作品発表をすすめても良いのではないか。
日々の新しい出し物を、次々、一般の演奏家に供給しよう。

2002年4月10日
近藤浩平

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