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音楽の未来

現代音楽の未来のキーワードは「雑種」。
重要なことは、ヨーロッパのキリスト教文化に匹敵する新しい精神文化と世界観や美意識が育つこと。それをバックグラウンドにもった音楽が生まれること。

ヨーロッパのクラシック音楽を頂点に、その他の音楽を未発達な音楽だと考えるような文化的ヒエラルキーにとらわれた思考は、クラシック・現代音楽界の中では今も根強い。
特定のヨーロッパの演奏家のようにモーツアルトを演奏したいという目標設定と、ブーレーズやラッヘンマンに憧れてあのような現代音楽を自分も書いてみたいという目標設定は、対象の音楽こそ違っても、同じ構造と思われる。
しかし、これだけでは、録音や来日公演でヨーロッパの大演奏家の演奏を拝聴するなり、ブーレーズやラッヘンマンそのものを聴いたほうが良いということになってしまう。
とりわけ作曲では、モーツアルトはモーツアルト、ブーレーズはブーレーズ、私は私の音楽という何かがなければ、本人の自己満足の達成感としてはともかく、独自の存在意義のある音楽を生み出せない。


楽譜を書く作曲という行為は、ヨーロッパのクラシック音楽の作品思考を基盤にしているし、目の前にある楽器も演奏法の伝統も聴取習慣も、コンサートや劇場の形態も西洋のクラシック音楽の中で育ってきたものだから、作曲をするということ自体がクラシック・現代音楽の、西洋音楽に繋がった行動であるが、ここに、自分が何を持ち込み雑種化することが出来るかが大切だ。


西アジアから欧米の一神教の世界観は、その根本にある排他的な独善性の刃を、キリスト教のもう一つの原理である「愛」や、イスラム教の神への責任と助け合いの倫理により覆い隠すことで、バランスを取り、様々な問題を世界に引き起こしながらも高度な社会と文化を築いてきた。
アフリカや中南米などの植民地で現地の社会を崩壊させるほどの搾取と暴力をふるった同じ社会、奴隷を船底で運んだ社会が、バッハやフォーレのキリスト教音楽も築き上げたというわけである。
しかし、「一神教における神」への「祈りの音楽」、「宗教」という絶対者を擬人化して祈りを捧げるという制度を背負った特定の宗教の音楽は、他の宗教の人間にとっては押しつけの伝道音楽でもある。

今日の世界中で起きている様々な対立を見ていると、それとは異なったより世界・自然を直接に見る世界観と、世界・自然の一部である自分と世界との関わりを見いだしていくような「祈りの音楽」が生まれてくる必要があるように考えられる

2007年5月25日
近藤浩平記 

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