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光国赳先生とプロコフィエフの想い出

プロコフィエフのピアノ協奏曲第5番との出会いと光国先生

プロコフィエフのピアノ協奏曲のうち、第5番は、現在あまり人気がなく、高く評価する人も少ないだが、私はこの曲が彼のピアノ協奏曲中最高傑作だと思っている。この曲はもう、20年近く前、高校か大学生の頃だったろうか、中学生の時の音楽の先生、光国赳先生の書斎に行った時、膨大な蔵書(それこそ、ヴェルディのオペラから、ヒンデミット、RWVから、アメリカの近現代物まで、大きな壁一面が楽譜だらけの書棚)の中から、スコアを見せてもらいながら、アシュケナージのピアノ独奏、プレヴィン指揮のLPを聴かせてもらった想い出の曲である。

この恩師は、少々、変わり者の先生で、不思議な人物で、もともとピアノ科の出身であり、作曲をしているようではあるが、全く発表せず、どんな曲を書いているか謎で、語らず、私が作品を見せても具体的なコメントや指導はせず、レコードを聴くと、演奏の間違いが気になるので、楽譜ばかり読んでいるという、よくわからない孤高の先生でしたが、その後、私が社会人になって間もなくの頃、急逝してしまった。
私が中学生の頃は、とくに性格も風変わりで、生徒から見ればちょっとしたこと(授業前に生徒がふざけてピアノを勝手に弾くなど)をきっかけに突然激しく怒り出すなど予測のたたない人物で、他の教師陣からも孤立して最上階の音楽室に篭っている奇人という印象を生徒はもっていた。私の卒業後、結婚したとたん突如、人間が丸くなり、穏やかでにこやかな先生へ変貌し、私達卒業生は大変驚かされたものだ。

先生のお宅は、市内ではあるがかなり市街地からはなれた山間にあり、市内の駅伝競争大会の会場のすぐ近くであったため、駅伝に出場した後、うかがう機会が多かった。
その、とても一般の中学校の音楽教師とは思えないようなピアノが2台ある書斎で、このプロコフィエフの第5協奏曲を聴かせながら、第4楽章のところで、「この音楽はロシア人にしか書けないな」とつぶやいていた姿を、いまだありありと憶えています。まだプロコフィエフの作品は数曲しか知らなかったそのころ、狂ったキツツキのような第3楽章、オケにとってはおそろしく緊張をしいられそうな「入り」の連続も、衝撃的でした。ちょうど、作曲をはじめて間もないころの、私の原点のような体験でした。この先生が亡くなって,私の作曲は結局、独学になり、膨大な遺品の楽譜の一部(それでも、私の書架は満杯)をいただいたものが、私の作曲机の後ろにあり、この時のプロコフィエフのスコアも手元にあります。
光国先生の書斎を探索して、どのような作曲をしていたのかも、いつか解明したいものです。

2001年6月23日
近藤浩平

関連ページ
20世紀の100名曲のプロコフィエフの項

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