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音楽を聴く集中力と現代人の生活

とても高い集中と緊張、あるいは神秘的な静寂や響き、からみあったたくさんの緻密な声部の綾を、一音たりとも聴き逃がせないような集中した聴き方を求めている音楽というものがあり、非日常的な緊張感や、静寂に放たれる音に、非日常的なカタルシスの歓びを感じるという楽しみ方の音楽があり、クラシックや現代音楽には、そのようなタイプの音楽がたくさんある。スポーツでいえば、サッカーのように、一瞬も見逃せない緊張が続く音楽。ゲームの構造と流れを集中して楽しんでいる。それを、じゃまされるのは、サッカー観戦中に、電話がかかってくるようなもの。

一方、そうではなくて、多少の雑音が混ざっても、わいわいと楽しめばよい音楽、多少、聴き逃した音があっても、致命的な聴きののがしにはならない音楽もたくさんあります。オペラなど有名なアリアで歌手が登場する前後の部分など、野球で、打者がおもむろに打席に向う間の騒げる時間ですよね。お互いに、周りの人と、「おー、ずばらしい」とコミュニケーションをとる余白が残されている音楽の場。

音楽のつくり方、TPOによりふさわしい聴き方の集中度というものがある。

静寂、集中をリラックスしながら楽しめる人と、長時間じっとしていることがとても苦痛になってしまう人がいますね。コンサートで観ていると、なんの苦痛もなく、じっとしていられる人と、ちょとの間、しゃべらずにじっとしているだけでも苦痛そうな人と両方います。茶道や座禅など、長時間じっとしていながらリラックスしているという楽しみ方を、現代人が苦手になっているのは事実のようです。長時間、しゃべらずに、座って、じっと集中するということが、楽しんで出来る人が、どんどん減っていけば、そのような聴かれ方を求めている音楽も、どんどん減っていくことと思います。わたしは、ルイジ・ノーノだとか、シェーンベルクを、息詰まる緊張の中で、寒イボを立てながらじっと聴くのも好きだし、サンバなどを大騒ぎで楽しむのも好きだし・・・踊れないが踊りたくなる会話を楽しみながらジャズのライブを見るのも好きです。山に登っても、山の夜の静寂を楽しむことが出来ず、山小屋でテレビを観たり、ラジオを鳴らしたり、せっかく静かな山の中なのに、ウォ−クマンで音楽を聴いていたりする人が目立ちます。リラックスしながら、集中と静かさを保つ生活場面が、減ってしまっているからでしょうか。

2002年8月25日
近藤浩平

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