実現しなかった「幻の理想社会」のための音楽
プロコフィエフの初期の音楽はスクリアビンやロシア・アバンギャルドの作曲家との関わりが深い。
スクリアビンは、神秘主義(神智主義)的アプローチにより神と人間の一体化した理想のコミュニティをイマジネーションの中につくりあげた。音、色彩、香りまでを含んだ総合的神秘の共同体験の場をスクリアビンは音楽に求めた。
ソビエトの革命後、スクリアビンの影響の大きく残る20世紀はじめ、ロスラヴェッツ、モソロフ等ロシア・アヴァンギャルドと呼ばれる一群の作曲家達は「共産主義社会」という理想社会のために従来のヨーロッパ貴族社会の音楽とは異なった「新しい理想の社会の精神ための芸術音楽」を目指した。
また一方、別の作曲家達の一群は「理想の新しい社会の民衆の生活の音楽」を目標として平易で新しい、ヨーロッパ上流社会の匂わない音楽を作り出そうとした。
結局、スクリアビンはいわば社会的な実体のない神秘的コミュニティの先達あるいは教祖のような存在として孤立し、ロシア・アヴァンギャルドの作曲家達は、「自分たちの音楽性」と「新しい社会の支配者と民衆の音楽的素養」とのギャップの中で、自分達の社会的役割を剥奪されてしまい、一方、後者の作曲家の中では制作集団プロコルに属したカバレフスキーが辛うじてレパートリーに残る作品を残した。
プロコフィエフは、スクリアビンの音楽の強引に聴く人を未知の体験に連れ去ろうとする強烈な吸引力と集中力、神秘的なエネルギーの運動に傾倒し「束の間の幻影」「(1915〜1917)、「炎の天使」(1919〜1927)などを作曲する。また1920年代、ロシア・アヴァンギャルドの作曲家達と並行する形でバレエ「鋼鉄の歩み」(1927初演)といったような作品を書く。
スクリアビンの交響曲第5番「プロメテウス」が1911年初演、モソロフの「鉄工場」が1926年初演という年代を考えるとプロコフィエフと時代の動きの関係がわかる。
プロコフィエフはこのようなロシア/ソビエトの作曲家の「新しい理想の社会」のための音楽をつくるという目標、作曲家の社会的役割についての意識を共有していた作曲家だ。
ストラヴィンスキーは、ロシアを離れ故国における社会的役割を放棄しても「詩編交響曲」「ミサ曲」「レクイエム・カンティクルス」などに見られるようにロシア正教的キリスト教の信仰を基盤にもった作曲家であったから生きていくことができた。
しかし、プロコフィエフにとってはロシア/ソビエトの作曲家としての社会的役割は自分の存在意味に欠かせないものだった。プロコフィエフにはソビエト連邦に戻ることを躊躇する信仰上の理由もなかった。「作曲技法上の自由」のリスクを考えても、「自分の仕事が故国の社会から必要とされているという意識」は、プロコフィエフにとって捨てることのできないものだった。
プロコフィエフはパリやアメリカの聴衆の人気をとり、欧米の作曲界の話題の中心になることで満足を得ようと試みるが、ロシアの伝統的音楽性に深く根ざした彼の音楽は、「前衛」としては中途半端な悪名を轟かせることが出来なかった。自分の音楽の多くの要素を形作っている「ロシアの伝統」から離れることで音楽的枯渇の予感をも感じ、またパリやアメリカの金持ちやインテリの聴衆を喜ばせるということに社会的役割としての精神的満足を得られなかったのだろう、1933年ソヴィエト・ロシアに復帰する。
プロコフィエフは「新しい理想の社会の精神ための芸術音楽」というロシア・アヴァンギャルドの作曲家達の夢と、「理想の新しい社会の民衆の生活の音楽」への理想を捨てることなく追い続ける。
現実のソビエト・ロシアは「理想の社会」を築くことなく幻に終わった。また新しい「精神文化」を築き上げることもなかった。プロコフィエフも、ショスタコーヴィチほど語られることはないがソヴィエトの体制の圧迫と恐怖と不自由を味わい、スターリンの死と同じ日に死ぬ。ショスタコーヴィッチにはスターリン後に作曲する時間が残されていたが、プロコフィエフには無かった。
レーニンが掲げた理想を持って出発し、スターリンによって理想を失ったソビエト社会は崩壊し、「実現しなかった幻の理想社会のための音楽」としてプロコフィエフの音楽は残された。
ショスタコヴィチの音楽が「現実のソビエトの音楽」とするなら、プロコフィエフの音楽は、「現実には存在しなかった幻の理想社会としてのソビエトの音楽」である。一方、ソビエト時代の多くの体制側群小作曲家の音楽は「現実のソビエトを美化した音楽」であって、プロコフィエフの音楽とはレベルが異なる。
プロコフィエフが自分の音楽が聴かれる世界として思い描いた「理想の社会」を、現実のソビエト共産主義は実現できなかったが、プロコフィエフは「理想の社会」を想定し続け、「理想の社会の音楽生活を満たす日常的レパートリー」をつくりつづけた。
聴衆との天才的妥協
ロシア・アヴァンギャルドの作曲家達、ロスラヴェッツ、ルーリエ、モソロフ等は、「自分たちの新しい音楽性」と「新しい社会の支配者と民衆の音楽的素養」とのギャップを埋めることなくソビエトの音楽生活から姿を消した。
一方、プロコフィエフは、チャイコフスキーに匹敵するような意味で妥協のない大衆性を幸い兼ね備えていた。「新しい社会の支配者と民衆の音楽的素養」が受け入れられるぎりぎりの音楽語法をとり、古い器に新しい酒を隠して飲ませ「気づいた時には飲んで酔った後」という巧妙さで新しい音に聴衆を慣らしてしまう。
ソビエト共産党とソビエトの保守的聴衆の中で作曲家生命を保つためにプロコフィエフがとった天才的な妥協は、ソビエトが無くなった現代、結果としてソビエト体制あるいはスターリンなみに保守的な「西側のクラシック音楽界の演奏家と聴衆」の中でプロコフィエフの音楽に19世紀の大作曲家達なみの人気を獲得させることができた。
しかも、彼の天才的仕掛けは聴く人の耳を知らない間に新しくしてしまう。
プロコフィエフの仕掛けは、20世紀音楽を受容する聴衆のいる「理想の音楽社会」へ前進する大きな推進力になっている。ピアノ、バレエといったレパートリーでプロコフィエフの音楽が無かったら、多くの聴衆と演奏家の耳は今よりもっと保守的で、20世紀音楽の語法と日常の音楽の語法にさらに大きな断裂が生じていたのではないだろうか。
ロシアの伝統の最良の部分を継承した作曲家
プロコフィエフの音楽は、たとえパリ時代の前衛性を標榜した作品でも、すみずみまでロシア音楽の伝統に根ざしている。ピアノ協奏曲第5番のような作品でも、メロディ、リズムの隅々までロシア音楽の抒情性がある。強烈なリズムの推進力と不協和音によって衝撃力を強められている箇所でも骨格にはロシア音楽の伝統的音楽性が失われることはない。
だから一旦、彼の音楽に馴染んでしまえば、チャイコフスキーを聴く事とプロコフィエフを聴く事の間には基本的な音楽聴取体験の有り方として大きな違いはない。プロコフィエフはチャイコフスキーの後継者である。
作品によってはムゾルグスキー等を継承する面もあり、前述のとおりスクリアビンも継承している。
チャイコフスキーの音楽語法が、多くの聴衆の耳にとってやや古すぎるものと感じられるようになった時(19世紀音楽が古楽として聴かれる時が来る)、プロコフィエフの音楽はチャイコフスキーの音楽が現在占めている位置にあるだろう。
18〜19世紀ピアノ音楽の伝統の20世紀最大の総合的継承者
エマニュエル・バッハのクラヴィア作品、モーツアルト、フンメル、ショパン、シューマン、リストからスクリアビンへと連なる駆け巡る幻想と俊敏な運動性の鍵盤音楽の系譜の終局点にプロコフィエフの音楽はある。
21世紀の音楽生活の「日常的レパートリー」
「理想の社会の音楽生活を満たす日常的レパートリー」を目指したプロコフィエフの音楽は、20世紀の音楽語法が大多数の聴衆の耳にとって当たり前になり、19世紀以前の音楽の語法が多くの聴衆にとって「古めかしく感じられるもの」となっていくであろう21世紀に、クラシック音楽という場、オーケストラ、室内楽、ピアノ、オペラ、バレエといった演奏形態を前提とした音楽の聴かれ方が生き延びていくための重要なレパートリーになっていくだろう。
ロックやポピュラー音楽のリズムと音楽のスピード感と音圧に慣れてしまった世代にとって、19世紀以前のクラシック音楽の語法は、古すぎてわかり難い、あるいは刺激が弱すぎて眠くなってしまうといったことが起こりつつある。これは起こるべくして起こってくることである。チャイコフスキーやブラームスなど19世紀の音楽を好む人でも、ハイドンなどの古典派やバロック、ルネサンスなどのより古い時代のレパートリーは退屈に感じてしまうという人が結構いるのと同じ現象だ。
プロコフィエフは、クラシック音楽の最良の伝統を21世紀に引き継ぐ最重要なレパートリーになる。 現代に生きる人間の生活感情、速度感に近い「クラシックなレパートリー」として21世紀に最も演奏頻度の高い作曲家の一人となるだろう。
モーツアルト的総合者
作曲家としての創作パターンのタイプ、時代との関わり、音楽的性格において、プロコフィエフは20世紀におけるモーツアルトのような性格をもっている。
モーツアルトは18世紀の様々な作曲家の様々なスタイルを自由自在に取りこんで同時代の作曲家の中で最も変化に富んだめくるめくような急速な音楽を書いたが、技法上の特別な発見や特定の様式上の楽派をつくりはしなかった。時代の様々なスタイルを一つの作品の中で縦横無尽に使いながら、類のない個性を築いた。一瞬にして別世界が次々と開かれながら疾走する音楽としてプロコフィエフも、同様である。
2人とも作曲様式上の楽派は形成せず、作曲技法上の主義主張から分類されない。
2人の音楽にはピアニスト=作曲家としての音楽と運動感、スピード感がある。時代の標準的音楽感覚における安定感を半歩はずす半音階的な「はずし」の感覚で聴く人に次々と軽い驚きを引き起こしていく作り方も共通している。おそらく18世紀の他の作曲家、たとえばディッタースドルフやホフマイスターやサリエリの音楽に馴染んでいた当時の聴衆にとってモーツアルトの転調と半音階、シンコペーションといったものは、プロコフィエフの「ねじれた旋律」のような音楽的刺激を引き起こしたのではないだろうか。モーツアルトの語法が最も斬新な時でも、技法としてはクラウスやヴァンハル、ハイドン兄弟などといった当時の先進的な作曲家達が同時期にすでに採用しているもので実験的発明者というわけではなかった点も共通している。
音楽に独特のシニカルな感覚と、ひんやりと冷たい夜空のような透明で深い空間が時折出現すること。駄目押しの盛りあがりのクライマックスの持続力。華やかさと恐怖感の落差の好み。大衆性をもったスタイルをとっている瞬間でも非人間的なまでの冷徹な視線。最も記憶に残る明晰さと複雑さの共存。
オペラ、バレエ、交響曲、協奏曲、室内楽、ピアノ音楽などクラシック音楽の主要な演奏形態のほぼ全てにわたって多数の作品を残し、娯楽的な音楽からシリアスな音楽まで、華やかで喜ばしい音楽から悪魔的音楽までクラシック音楽の音楽生活の様々な場面の需要を全て自分の音楽で満たそうとするかのような作曲領域の広がりも共通している。
プロコフィエフの晩年の作風の保守化
プロコフィエフの作風は初期の斬新な作風から、とくにソビエト復帰後、晩年になるにしたがい保守的なものになっていくとされている。
プロコフィエフの初期のどの前衛指向の作品でも、実はロシアの伝統的旋律とリズムを基本的な音楽の骨格としてもっている。保守化と言われるこの変化は、同時代の西側社会の現代作曲界の潮流に対応した衝撃的音響という音楽要素が、次第にはがれて、その下にあった伝統的なロシアの音楽があらわになったに過ぎないとも捉えられるし、1930年代の新古典主義な清澄さへの世界的志向と並行するもの(バルトークのアメリカ時代の音楽を思い起こしてほしい)かもしれない。
プロコフィエフはロシアに生まれた、子供時代を比較的恵まれた環境で育った。ロシアの比較的恵まれた階級社会の家庭にあった彼にとって、ロシアは「美しい故郷」であっただろう。ソビエトに育ったショスタコヴィチにはこのような「子供時代を過ごした美しいロシアへの郷愁」はない。
プロコフィエフの音楽には「キージェ中尉」の「トロイカ」を典型とするような「美しい故郷ロシアの音楽」がしばしば現われる。彼が「実現されなかった幻の理想の社会の音楽」への未来指向の意志的な態度を休息させると、「古いロシア」の音楽が前面に現われる。後期の作品でも、ピアノソナタ第8番「戦争ソナタ」(1944)や、交響曲第6番(1947)のような作品では初期の作品と変わらない大胆さが見られるが、後年になるほど「古いロシアの音楽」の作品の割合が増えてくる。
1945年以降の作品は、「新しい音楽性」と「新しい社会の支配者と民衆の音楽的素養」とのギャップを許さない体制のもと、いわばノンポリの態度をとり「シンデレラ」、「石の花」、交響曲第7番「青春」、「冬のかがり火」など政治的な態度に繋がらない題材を中心に「美しいロシアへの郷愁」を、「民衆の音楽=社会主義リアリズム」と言いくるめることで実態としては「古いロシアの音楽」を書き綴った感がある。
しかし、プロコフィエフの音楽の「古いロシア」への回帰指向はソビエト復帰前の作品、例えば「放蕩息子」(1928)にもすでに現われてきていたものであり、ソビエトの文化政策の如何に関わらず多かれ少なかれ起こったものに違いない。
そのため、スターリンの癪に障らない保守的なバレエ「石の花」の音楽でさえ、自分の音楽を偽って仮面を被っているような空虚さはない。プロコフィエフの音楽のある面は抑制されてしまったのは確かだろうが、この体制の中でプロコフィエフが作ることが出来た音楽もまたプロコフィエフ自身の音楽そのものであったからだろう。
2000年11月12日記
近藤浩平
プロコフィエフについてのおすすめサイト
The Prokofiev Page(英語)