民謡復興がもたらしたもの
ヴォーン=ウィリアムスは、その著書「民族音楽論(National Music)」において、民族音楽および民謡の本質を次のように語っている。
「民謡を縦に規定するものと言えそうな面については、それが純粋に旋律的であるという事実がある。われわれは近代音楽によって、あまりに和声に慣らされているから、和声を考慮しない純粋な旋律がありうるということさえ、できにくくなっている。(中略)
調性音楽は、少なくとも18,19世紀の間、長調と短調の2つの音階しか存在を認めなかったーこの2つは、休止や開始を示すための完全正格休止や半休止、導音などあらゆる和声に関係する要素をそなえていた。ところが純粋に旋律的な音楽においては、まったく新しい一群のものがあらわれてくる。長調、短調の音階は真に旋律的な音楽にはほとんど現われない。旋律的な音楽と関連しているのは、主なものをあげればドリア旋法、ミクソリディア旋法、イオニア旋法など、別個のシステムである。このうち最後のイオニア旋法は長調と音程が同じであるが、他の点でまったく異なっている。」
(「民族音楽論」(塚谷晃弘訳、雄山閣刊P32)
「民謡は、まったく音声によって伝達されるもので、視覚的な助けを受けることがない。」「民謡の歌い手は、(中略)リズム形式に関して全く自由にふるまう。(中略)彼はあわれな民謡採集家の当惑など考えもしない。彼の歌をきいた採集家は後であらためて彼を問いただし、彼が熱中のあまり不注意に歌った箇所を、正しい拍子記号と4分音符と8分音符をそなえた小節の形に修正しようと試みるかもしれない。われわれは、5拍子とか7拍子の不規則な長さをもった小節は現代作曲家だけの特権であるかのように考えがちだが、むしろ現代作曲家たちの方が先人の享受していた自由に復帰したのである。」
(「民族音楽論」塚谷晃弘訳、雄山閣刊P31−P32)
ヴォーン=ウィリアムスをはじめイギリスの作曲家達の多くにとって、20世紀初頭における調性の崩壊とリズムの解放は、民謡、民族音楽、あるいは長短調確立以前の古い時代の自国の古典(バード、タリス、ウィ-ルクスなど)を出発点に自国の新しい自然な音楽、民族的な音楽を目指すことを可能にする、いわば大陸の芸術音楽の束縛からの解放だった。ドイツ・オーストリアの作曲家にとって調性と拍節の崩壊が、自国の伝統的音楽様式の消耗と崩壊を意味するものであったのは大きな違いがある。20世紀イギリス近代現代音楽が、ドイツ・オーストリアなどの近現代音楽とはかなり異なった道をたどった理由である。
また、ヴォーン=ウィリアムスは同じ著書で、民謡の作者が共同体全体であると、民謡の成立プロセスをたどりながら述べ、セシル・シャープ(注)の次の言葉を引用している。「芸術音楽は個人による作品で、民族音楽に比べて比較的短期間に作られ、紙に記されて一定の変更を許さない形で永久に固定される。民族音楽は民族の産物で、個人的なものより共同体的な感性と趣味を反映している。それは常に流動的である。その作品は決して完成せず、その歴史の中のあらゆる瞬間において、ただひとつの形態だけでなく多数の形態をもって生きている。」(「民族音楽論」(塚谷晃弘訳、雄山閣刊P41)
ヴォーン=ウィリアムスは民謡を、「共同体という幹をもつ個の開花」と定義づけている。
特別な才能と強い自我をもった西洋近代的芸術家個人の表現ではない、共同体の表現である民謡、民族音楽の価値への認識が、セシル・シャープ、ヴォーン=ウィリアムス、ホルスト等による19世紀末から20世紀はじめにかけての民謡収集活動がもたらしたものである。ウィリアム・モリス等の「民芸復興」と思想的には並行するものである。実際、ヴォーン=ウィリアムスと活動を共にしたホルストはウイリアム・モリスのケルムスコット・ハウスと接触をもっていたようだ。
個人の感情表現というヨーロッパの19世紀ロマン主義の特質は、シェーンベルクやベルクらの表現主義において個人の異常な極限的状況での衝動を生々しく噴出させるところにまで到達し、反動として抽象的形式美を中心に置き、直接的感情表現を避ける即物主義、新古典主義があらわれた。
ヴォーン=ウィリアムス等の音楽においては、個人の感情表現か形式美か、との対立に対し、共同体の表現という第3の立場が前面に出てくる。
この言葉は、「民族主義」の排他的共同体意識を前面に出した立場と言葉の上は似たものになってしまうのだが、彼の民族主義の基礎は、民衆の音楽、自分の属する共同体の文化、いわば自分のネイティブの文化を音楽活動の基礎としたいという意識であって、国家意識的な排他性にもとづくものではない。
「個人」を超えたいわば共同体意識の表現としての音楽、民謡について語りながら彼は、実際上、自らの音楽への理想像を語っている。
ヴォーン=ウィリアムスの場合、個人を超えたいわばトランスパーソナルな共同体意識の表現は、民族的な共同体、音楽家の生活する地域的な社会に直接根ざしたものとしての性質が強く現われている、一方、彼とともに活動したホルストの場合、個人を超えた共同体の意識は、いわば宇宙的意識という神秘主義的レベルにまで拡大され民族主義の範疇を逸脱しているのも興味深い。
ヴォーン・ウィリアムスは、こんなことも書いている。
「民謡は、われわれのさまざまな音楽的趣味を和解させるためのきずなではないだろうか。ポピュラーとクラシック、低級な音楽と高級な音楽というぐあいに、われわれはあまりに音楽を区別しすぎる。われわれはいつか、ポピュラーでもクラシックでもない、高級でも低級でもない、あらゆる人びとが参加できる、理想の音楽を見出すだろう。フィレンツェの群集が、チマブエの偉大なマドンナを大聖堂に運んだ時の行列を、おぼえているだろうか。われわれの芸術はいつそのような勝利を獲得できるだろうか。芸術の大衆化はホイットマン的な夢想にしかすぎないのだろうか。現在、それは夢である。しかし実現可能な夢なのだ。われわれはこの夢の中に、われわれの芸術が真の生命をもち、その中により大きな生命への芽をもっていることを理解しなければならない。われわれの芸術が生きつづけているという証拠は、われわれの民族の精神的願いを、いく世代にわたって歌ってきた民謡以外の、いったいどこに見いだせるだろうか。」(塚谷晃弘訳、雄山閣刊P48)
ヴォーン・ウィリアムスの「民族音楽論」は1934年に初版が出ている。ジャンル間の無理解と断絶、現代音楽と聴衆の乖離。20世紀の音楽状況をヴォーン=ウィリアムスは強く意識していた。限られた音楽的エリートのための現代音楽というものには抵抗を感じていたことが伺われる。
20世紀初頭のイギリスにおける、理想主義的な社会主義思想が関わっているのかもしれない。
注 セシル・シャープ(1859−1924)イギリスの民謡収集と研究を行った。1900年頃からヴォーン=ウィリアムスやホルストが彼の活動に協力した。イギリスにおける民謡の復興は、バルトーク等における非西洋音楽としての民族音楽への関心とは異なり、自らの音楽性の価値の再発見というべきものと思われる。
イギリスにおける古楽復興と合唱音楽の伝統
両大戦間から第2次大戦にかけての新古典主義の時代。多くのヨーロッパの作曲家達は、バッハ、クープランなどのバロック期の音楽をモデルにし、擬古典的あるいは擬バロック的な作品を残した。ストラヴィンスキーの「プルチネルラ」(1920)や「ダンバートン・オークス協奏曲」(1938)、マルティヌーの「ハープシコード協奏曲」(1935)、ラヴェルの「クープランの墓」(1914−1917)などがある。ホルストも「フーガ風協奏曲」(1923)というブランデンブルグ協奏曲を模したような魅力的な擬バロック作品を残している。もちろん、これらの動きには伏線があり、マックス・レーガー(1873−1916)やラインベルガー(1839−1901)は19世紀末に擬バロック的様式をすでにとっており、これらはメンデルスゾーン(1809−1947)のオラトリオ、教会音楽、カンタータ、オルガンソナタなどから真っ直ぐにつながるものだ。
19世紀から20世紀の初頭におけるイギリスでは、メンデルスゾーンとブラームスの影響力が極めて大きかったことも要因と思われるが、急速に古楽が復興し、合唱音楽が活発化した。
とくに合唱音楽が重要な位置を占めるイギリスでは、バード(1543−1623)、タリス(1505−1585)、ウィ-ルクス(1576−1623)などエリザベス朝の音楽が特に重要な位置を占め、バロック音楽については自国の大作曲家パーセル(1659−1695)、イギリスを主な活動の場としたヘンデルへの評価が高かったことが、古楽復興と新古典主義的作曲のモデルとなったレパートリーの特徴となっている。ホルストがMorley
CollegeやSt.Paul's Girls' School、Thaxted choir
などで1916−1917年頃(ちょうど「惑星」の完成の頃)指導していたレパートリーは、バード、パレストリーナ、バッハ、パーセル等であった。(Imogen Holst[The Music of Gustav
Holst]P42参照)
ヒューバート・パリ-(1848−1918)やスタンフォード(1852−1924)等の音楽があらわれた後、エルガー(1857−1934)はオラトリオ「ゲロンティアスの夢」を1900年に書き、若干擬バロック的な「序奏とアレグロ」(1904−1905)を書く。ヴォーン=ウィリアムスが「タリスの主題による幻想曲」を書いたのは1910年のことである。
ヴォーン=ウィリアムスは、ヒューバート・パリ-のことを回想して次のようなことを書いている。
「パリ-は、かって私にこういった。「合唱曲はイギリス人にあうように、そして民主主義的に書け」。
われわれパリ-の生徒は、もし賢明であったなら、りっぱなイギリスの合唱曲の伝統を受け継いでいるはずである。それは、タリスからバード、バードからギポンズ、ギポンズ、ギポンズからパーセル、パーセルからパッティシルとグリーヌへと伝えられたもので、彼らは自分たちの番になって、ウェスレイを通じてパリ-に伝えられたものである。彼らはその灯をわれわれにわたした。その灯を絶やさないことがわれわれの義務である。」
(「民族音楽論」第4章 音楽的自叙伝 塚谷晃弘訳、雄山閣刊P184)
ちなみに、ヴォーン=ウィリアムスは、ストラヴィンスキーの「プルチネルラ」について、「つまらない音符」を加えた不誠実な作品とみなす一方、「結婚」と「詩編交響曲」をロシアの合唱の伝統を受け継ぐ偉大な音楽として残るものと評価している。
(「民族音楽論」 塚谷晃弘訳、雄山閣刊P68ー69)
イギリス独自の古楽と合唱音楽の伝統は、ティペット、ブリテンから、P.M.デイヴィス(1934−)、ジョン・タヴァナー(1944−)、ロビン・ホロウェイ(1943ー)まで、イギリス近現代音楽に独特の方向性を与え続けている。
ベルリンのブルッフ、エドワード・エルガー、パリのラヴェル
1897年ベルリンでヴォーン=ウィリアムスが学んだのは当時合唱音楽の分野で大きな名声をもっていたマックス・ブルッフ(1838−1920)であった。ブルッフは彼に、「書くだけの”眼の音楽”は”耳で聴く音楽”とまったく別のものなのだと警告した。」(「民族音楽論」第4章 音楽的自叙伝 塚谷晃弘訳、雄山閣刊P190−191)
帰国後の彼は、エルガーのレッスンを受けようと、エルガー夫人に手紙を書くが、これは実現しなかった。しかし、ヴォーン=ウィリアムスは、「エニグマ変奏曲」のスコアを大英博物館で勉強し、その自分への影響を認めている。(「民族音楽論」第4章 音楽的自叙伝 塚谷晃弘訳、雄山閣刊P191)
1908年にはパリにおもむき、モーリス・ラヴェルに学んでいる。ラヴェルから学んだことを彼は次のように述べている。
「おもくるしい、対位法的ゲルマン様式は必ずしも必要ではないというようなことで。「複雑多様ではあるけれども、繁雑難解ではない」というのが彼のモットーであった。
彼は、私に、楽譜どおりではなく、音色のニュアンス、表現のあやをどういうふうにオーケストレートするか、ということを示してくれた。 (中略)
彼は展開のための展開に反対した。ひとつの要素は、なにか他のよりよきものに到達するためにのみ発展すべきである。
(中略)
ラヴェルは私のことを「私の音楽を書かなかった」唯一の生徒であったといった。」
(「民族音楽論」第4章 音楽的自叙伝 塚谷晃弘訳、雄山閣刊P195−196)
2つの世界大戦を生きのびた交響曲作曲家
ヴォーン=ウィリアムスは、イギリスの民謡復興との関わり、あるいはタリスなどイギリスの古楽との関わりで語られることが多いため、典型的イギリス田園趣味的、牧歌的な作風の作曲家とのイメージを抱かれることが多い。「グリーンスリーブスによる幻想曲」(1908)、「タリスの主題による幻想曲」(1910)、「富める人とラザロの5つのヴァリアント」(1939)、「揚げひばり」(1914−1920)、「オーボエ協奏曲」(1943−1944)、「テューバ協奏曲」(1954)などの人気のある作品は、このイメージを強める第一印象を与える。
しかし、とくに、第2次世界大戦前後からの作品には、民謡的なのどかさは吹き飛び、ショスタコーヴィチ、ニールセン、オネゲルなどの交響曲にも通じる緊張感と時代意識を感じさせるものが多くなる。交響曲第4番(1931−1934)、第6番(1944−1947)、第9番(1956−1958)、「ヨブ」(1927−1930)といった作品では、のどかな田園趣味はない。サックスが荒荒しく響くスケルツォ、全く田園的のどかさを剥ぎ取られたジーグのリズム、狭い音域の中で変化を加えながら執拗に繰り替えされる旋法的旋律,ショスタコーヴィチの交響曲を思わせるような執拗で悲劇的なモットーの反復、すさんだ響き、威圧的な下降音階進行、刺激的でジャズかワイルあるいはニールセンの音楽を思わせる乾いた打楽器の衝撃など全く20世紀中葉の緊張度の高い作品としての同時代性をもっている。とくに独特なのは、交響曲第6番のピアニッシモのみで演奏される荒涼とした最終楽章である。構造的には2つの和声領域を解決なく反復し、ホルストの「海王星」と似た着想なのだが、全く不気味なまでの荒涼とした静かさ、廃墟、それも核時代の静かな恐怖と言われても納得する音楽だ。シベリウスの交響曲4番の第1楽章の低弦の反復も連想させるのだが、ヴォーン=ウィリアムスの音楽には、ミサイルがロンドンに飛んだ第2次大戦の恐怖があり全く異質である。
他の作品、一見、田園的な音楽かと思わせる交響曲第5番(1938−1943)や「ヨブ」(1927−1930)、「フロス・カンピ」(1925)は宗教性を帯び、楽天的田園音楽ではなく。18−19世紀的な教会音楽でもなく、宗教と現代の人間の関係についての音楽であり、その内容は単純な信仰の音楽ではない。むしろ、ホルストの「エグドン・ヒース」や「死への頌歌」に近い世界である。
ヴァーン=ウィリアムスもまた、ショスタコーヴィチやプロコフィエフ、ニールセン、ウォルトン、ヒンデミット、シェーンベルク、バルトーク、マルティヌー、オネゲル等と同時代を生きた作曲家なのだ。
1999年12月13日
近藤浩平 記
関連項目 ホルストにおける脱西欧近代へ
2001年クリスマスにヴォーン=ウィリアムスを聴く
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