●魚沼駒ヶ岳 2033m●平ガ岳 2141m●巻機山 1967M●谷川岳 1977M(オキの耳) ●雨飾山 1963m●苗場山 2145m●妙高山 2454m●火打山 2462m●高妻山 2353m
今は越後駒ヶ岳と呼ばれるこの山は、なかなか縁遠い位置にあり(関西からは特に)、容易ではない。八海山、中ノ岳と併せて越後三山と言い、この三山駆けをした者はその経験を語る時、誇らしさと言うより、苛められてネジ曲がった心根ちょっぴり披露しつつ、意地悪く人にも同じ体験を勧めるのだ。要するに辛い山なのだ。私も三山駆けに憧れるけど、単独だったので、二山に止め置いた。
駒ヶ岳には一番楽な枝折峠から入る。眼前の荒沢岳は事故が多いと聞く急峻な岩山である。その奥に奥只見湖がきらめく。駒ヶ岳は、緑々しい。うねうね進み、登りきると突然小屋が現れる。裏には雪田があり、小川が流れている。
この年は全国的に雪がない年で、水がないと聞いて、沢山担いできたのに、無駄だったのね…。まあ、ともかく水は、縦走の鍵を握り、三山駆けの辛さは、この先の笹薮と喉の渇きに集約される。
GWに縦走した友人K夫妻でさえ、水に苦労したのに、辿り着いた小屋の、毒舌だったらしい前のおやじから「夏でないと縦走の価値が無い」とコケにされた?そうな。わが夫は、ちゃんと暑いお盆の最中に行き、辛苦をなめて、連れ立った友人から「岩場、お花畑、雪、と物は(北アルプスのように)そろっているのに、心湧かない山」と見放されて、以後同行してもらえない。小屋付近だけが唯一のオアシスだそうだ。
さて、山頂には宗教色濃い石祠などあるが、ガスに覆われて展望の無い、一人きりの寂しい登頂であった。しかし百名山ブ−ムを反映してか小屋は賑わう。山から見下ろすとお花咲く草原台地の端に小屋は建ち、後が切れ落ちた谷底から沸き立つ雲間に浮かぶ様である。今の若い管理人は優しく、彼が撮った駒ヶ岳への愛あふれる写真集には感銘した。
翌日、中ノ岳へ縦走する人は私一人の様だ。霧雨が深く、次第に頭上を越す笹薮を漕ぎ漕ぎ平泳ぎ、足元の道を外すまいと気をつける。迷い人が多いのか、幾筋にも道が分かれているのだ。ひたすら泳ぐ。
突然、前方下から声がして、それに応える声が後方からする。誰にも会っていないのに、どうして挟まれているの?私は正しい道を歩いてきたはず…。確かめようにもガスが濃くて、何も見えず、言葉が聞き取れないが、呼び会う声はお互い近づきつつある。別筋の道を歩んでいるらしい。
中ノ岳を下り、兎岳からの合流点で、本日最初の、正真正銘、人の姿に出会った時は心底嬉しかった。駒〜中ノ岳ほど、淋しかった縦走はない。兎〜丹後山へ道はお花多く良いらしい。ちなみに、八海山への道はまた凄い笹薮だそうだ。
私は十字峡に下る。主稜線の雨雲群から抜けると、雲間に覗く中ノ岳や八海山の五竜岳の山腹の険しさに、惚れ惚れする。
するとまた突然、左崖の下から青年が血相変えて上ってきた。何でも、休もうと道に置いたザックが、転がり落ちたそうだ。全財産ごとなので、必死で探しているが見つからない。見つからないと帰れないので、お金を貸してあげて別れた。まだ探すらしい。
道は両側とも切れ落ちた急な尾根道で、途中で会った、草刈りに来てた陽気なおじちゃん達(夕方の宴会に誘われた)に事情を話して、彼が滑落行方不明になどならないように頼んでおいた。
それにしてもこの急坂長い道には閉口する。辛かった下り道の5指には入るね。しかもガクガク着いた十字峡からバス停迄、車道を1時間以上小走りせねばならなかった。
六日町から翌日八海山を目指す。リフトに乗って往復する計画だったが、山麓から見上げる山は、雲に覆われていたので、登るのはさすがに止めた。。八海山こそが三山のメイン、日本有数の信仰の霊山であり、激しい修業道場として栄え、スリルあるもの凄い鎖の道が楽しめるそうだ。この日は長岡の有名な花火大会さえ、中止になったくらいだから仕方ない。またいつか…。
尚、青年は無事ザックを見つけだし、後日お金と礼品を送ってくれた。
「魔の山」谷川岳は、遭難死者の数が世界で一番多い山である。尤も冬期や一部の沢ル−トに集中するから、無知な人が「危ない山」と止める程ではなく、多くの登山者が楽しんでいるのだ。唯、気象が非常に難しく、周りが晴天でももこの山だけは例外だったり、その逆もあるのか、私達が行った時には予報に反して青空が見えたりして幸運であった。
天神平から往復する。樹林帯の斜めでよく滑る木道のトラバ−ス道を行き、灌木帯から急登が続く。途中見晴らしの良い岩場で休み、目指す緑の谷川岳や、深い谷間など見下ろす。吹く風が心地よい。
やがて道はガれて肩の小屋に立つと山頂トマの耳はすぐ。西側はややなだらかな草原広がり、切れ落ちた東側よりはなだらかな山稜が続く。もうガスがたってきて、遠望はないが、北アルプスみたいな緑の稜線に感動、切り立つ露岩の上に立ったりポ−ズをとって遊ぶ。 双耳のもう片方、オキの耳まで行くが、憧れの縦走路には、わらじやロ−プが乾してあったり、私ら一般登山者とは違ういでたちの、何処から来たんですか?と聞きたくなる、沢や岩から?の、いかめしく見えた山岳部員らがいて、まだちょっと腰が引けた。
一般道である西黒尾根も鎖が切れていたり、整備が乏しいと聞いた。う−む、この頃の私にはやはり往復コ−スが無難で良かった。病み上がりのM氏は急登では苦しそうだったが、ベテランの技を披露してスルスルと華麗に下っていく姿はさすがである。本当にお世話様でした。今年の秋こそは縦走するぞ。
1999年10月再登、「いずこの山もそれぞれ」記録参照
紅葉が素晴らしかった山として、三指中には挙げたい、いやベスト1かも。その鮮やかすぎる色彩美を語る術はないが…。
小谷温泉からとにかく、天抜ける青空に、燃え立つ様な山々に囲まれ、木々は赤や黄に色放てる限りの力で彩り、見上げては歓声を挙げつつ写真を撮るので登りの辛さがない。
殊に荒菅沢付近、蒼天高く、布団菱の白い岩壁が突き上げ、同質の白い大岩転がる河原を、濃淡の緑色と紅葉の樹々が取り巻いて壁へと押し迫るのだ。興奮してファインダ−だけを覗いてると足元が危うい。対岸の尾根に取り付く道は急で滑落事故もあるらしい。
登山者で渋滞しながらも、見飽きることのない風景に、気分は高揚しっぱなし!!笹平に出ると、なだらかに笹の原続く先に雨飾山がそびえる。青く輝く日本海へは小さく鋭い岩峰群が伸び、反対に金山の後に焼山火打山が頭を覗かせ、妙高へと縦走できた事や、焼山の火山活動などM氏に教わる。
山頂からは雲一つない北アルプスの山波が大きく広がる。もう、嬉しくて御機嫌 御満悦 顔の私しかいない。
黒沢池ヒュッテは八角形のド−ム型で、寝るのは吹き抜け中央から放射状に並び、朝食はクレ−プと、異彩を放つ忘れられない小屋であった。高谷池に立つヒュッテも三角形の目立つ小屋だが、周囲の景色によくあっている。
ここの湿原一帯も美しいが、火打の売りは「天狗の庭」だろう。赤い草紅葉彩る岩の点在する、枯れ湿原の木道の先に火打山が見え、続く秋深い茶褐色の広い原に、静かに風が吹く。大きな池塘にその山姿を映す。火打、裏火打、焼山と三つの三角の山が尾根を平行に、伸ばして並ぶ。優しそうな山容だ。途中のダケカンバの森も好い。触ったりよじ上ったり抱きつかずにはいられない。
そうして登っていくと、庭が見下ろせ、妙高の頭と外輪の山々、遠く北アルプスや 谷川連邦など指されるままに眺めつつ写真に納める。山頂からは焼山の噴煙が上がり雨飾山には雲がかかっていた。
火打は「残雪の山スキ−によい」と聞いた。素人目にもなるほどと思うなだらかな斜面を下りながら、いつかはと憧れ抱きつつ未だにスキ−だけはど下手なままだ。
11月になってもまだ山に登れると聞いて、付いていった。彼らはこの9月の南ア北岳間ノ岳単独縦走の時、お友達になりお世話になった横浜の人達だ。
晩秋の戸隠牧場から、一不動小屋を目指す。避難小屋に泊まるのは初めて。山はうっすら雪化粧。途中の岩場は凍りつき、鎖は短く切られたのが、数間隔で垂れ下がる。「帯岩」と言う、普段でも滑りやすい一枚岩をトラバ−スするのに、何でつながってないの?どう頼って進むべきか、今だあの鎖の付き方は謎である。なのに、たくましい山男達のお陰で、ただただ脳天気な私だった。
最後の水場で、3人で10L位の水を担ぎ上げる。「山の食事への執着心」は、グルメなこの人達から受けた影響大である。
一不動に重荷を置き、二釈迦、三文殊、四普賢、と石祠を順にたどり登れば五地蔵岳だ。飯綱山との間に戸隠高原が広がり、「かごめかごめ」の妙高と立ち並ぶ火打、焼山はまっ白い。眼前に迫る高妻山はこんもりと樹氷の木々に覆われて、青空に笹緑と白雪の混じる色彩が何とも言えぬ美しさだ。
雪付きの急斜面は、ネガマリダケを掴みながらよじ登っていく。六弥勒、七観音、八薬師、九勢至と続いて高妻山の山頂は十阿弥陀如来という訳だ。樹氷の花々輝く先に白い妙高の中央丘が覗く。北アルプスのシルエットがそびえ連なる。岩壁鋭く屏風のように広げた戸隠の峰々は見下ろす形になる。
仏経臭い石祠らはこの戸隠の関連に違いない。日本有数の修験場として栄えた戸隠山の御裏山として高妻山、十一阿閃、十二大日、虚空蔵菩薩の乙妻山が続く。
一大展望パノラマを楽しんだ後、一不動に戻る。途中、出たブロッケンがとても綺麗で感激。夜は美味しい関東風お雑煮を作ってくれた。
翌日その戸隠山へ。更に冷え込んで周りの山々は白さ深まり、朝日に照らされる。標高の低いこちらには雪はさほどない。何より、高妻山がスックと立ち上がり、秀麗な三角錐の気品ある山容が、ちょっと北岳にも似て忘れられない。この先、八方睨からがやせた岩峰稜線の有名な修験場続く表道だが、そこまで行かず、小屋に戻って楽しいお餅焼き大会、元の滑る沢道を下り、牧場ではお蕎麦大会と続くのだった。