●白馬岳 2932m●五竜岳 2814m●鹿島槍ガ岳 2889m●剱岳 2998m●立山 3015m(大汝山)
昔、ちらっと見た写真集のイメ−ジから「アルプス」と言えば、限られた山のエキスパ−トのみが登ることの出来る難しい山域だと思っていた。信州をドライブしても、天高く浮かぶあの山々に人がいるなんて想像できなかった。
また上高地と言えば、訪れる人も希な秘境だと思っていた。ハイキングを始めた頃、「上高地に行けたらいいな…」と(山だと)思ってた位で、絶対に私なんかが、ましてや一人では行けるはずがないと信じていた。
ハイキングの会でも、大台ヶ原の企画でさえ流れる位だから、計画すらも無かった。まじめに毎回参加し続けた私が、百名山と云うものを知り、旅の途中で、恐る恐る東北や北海道の山に登り始め、「いつかは…」と憧れを抱くようになって、他の方から「行けるんちゃうか」とお墨を頂けるようになって、初めて登ったのが二年目の1994年だった。
比較的楽だと聞いた、後立山連峰から始めた。その後も順追って登り続け、百名山の一番最後を飾ったのも北アルプス、槍ガ岳だ(やりのこし)。北アルプスが初心者向きでどんなに通俗な山であったかを知っても、それはいつも清々しく素晴らしく心はやる思い止められない山々であり、知らなかった頃の恋にも似た憧れ今も消し難い。そしていろんなバリエ−ションに富み広大で奥深い大事な本当に貴重な、きっと登り切ることの無い山域である。
ところで、99年5月に登った毛勝三山は、「後立山からもよく目立つ」と夫が言うのだが、私にはさっぱり覚えが無く、それは、どこにある山か知らなかった。が、後立山のアルバムを引っ張り出して見てみると、あるわあるわ、さりげなくバックに沢山写っているのを夫に指摘されてしまう私であった…。
アルプス入門として、私も一番始めに登ったのがこの山だ。
何もかも初めてで、連なってそびえ立つ緑と白の頂きらは、どれが目指す白馬かも知れず、はやる心のままに猿倉からの樹林帯を駆けるように歩き出す。キヌガサ草がいっぱいの白馬尻山荘を過ぎてすぐ大雪渓が始まった。
大勢の登山者が溢れ溜まっているのを掻きわけていくと、山開きの神亊が行なわれていた。ガスで山上部が隠れる中へ、登山者達は蟻の行列のように進んでいく。軽アイゼンを付けても雪に不馴れな私は歩みが止まると滑りそうで少し恐い。雪渓を越すと(小雪渓は覚えていない)、点在する大岩を取り巻く緑の原が一面に広がり、見たことの無い可憐な高山植物が中で咲き誇っている。ガスが切れてきて、青空も見えだす。期待に胸高鳴り走り出したくなるが、急斜面に息も上がってくる。村営白馬小屋の手前位で、雷鳥も見れた。
稜線に立つと、向かいに一際立派な山塊が、沸き上がる雲の中からそびえ立つ。ああ、これこそがアルプスよ!早く山頂に立って拝みたいのだが、また白馬山荘迄もが、疲れた体には遠いのだ。賑わう頂上は青空の下、雲海が広がりカッコイイ山々が頭を覗かせる。無知ながら、先程の山があの剱、立山連峰と教えてもらって大感動を新たに覚えた事、今も忘れられない。暫く釘付けになっていたが、どよめきに振り向くと、おおブロッケン現象が〜!!
山小屋は、あの収容力を誇る白馬山荘だからそんなに混んでなくて、一人で夕食や、山開き記念のお神酒を、ニコニコ摂ってると、向いのおじさんがお神酒をくれた。その人が、今後もお世話になる長岡のM氏で、今も山の父娘の関係は続く。 翌朝の御来光は最高!長岡M氏と一緒に、鑓ガ岳と目指す。妙高、火打、雨飾他山々、高山植物の女王コマクサやミヤマオダマキ他、名前をいろいろ教えてもらった。白砂地の杓子岳にトラバ−スのあの線、砕石の鑓ガ岳、青い空、咲き乱れる高山植物、360度欲しいままの展望、何度も振り返る白馬岳は、深田久弥氏好む処の東が切れ落ち「頭を持ち上げた怒れる獅子」という様が今写真を見ると伺える。私は片斜面の波打つ様を記憶している。
期待の鑓温泉は、女風呂だけ囲いがあって悔しかったが、着替えもしてさっぱりと、後はルンルン下るだけと思っていたのに、長く、不馴れな急斜面の、しかも残雪渓上をアイゼンも付けず恐々横切って、案の定、滑り落ちてしまった。幸い止まったものの、雪上に引かれた赤ペンキに塗れたザックTシャツ短パンは、今も色が残っている。更に、猿倉でほっとしすぎて、財布ごとウエストポ−チを置き忘れた事を、糸魚川の手前で気がついてM氏の車を引き換えしてもらう、お間抜けさ。まあ、すぐ見つかったし、それ程浮かれた私の白馬岳、アルプス初体験は素晴らしかった。
大雪渓、お花畑、雷鳥、雲海、ブロッケン、山小屋、御来光、大展望等々、なんでも揃う白馬岳なのだ。
虫歯の治療を受けている時など辛い時、それを忘れるために、目をつぶってこの時の幸福な縦走を思い出す事にしている(笑)。でも、それはもう、手の届きそうな雲海の上、天上を行くがごとく、全身を支配する幸福感に打ち震えながら歩いた記憶である。
後立山連峰の核心部であり、雄々しく連なるこの二座を、それぞれの感慨を持って誉め称えた深田久弥氏も、愛着が深いようだ。まず五竜については、唐松岳から眺めた力強い壮大な姿を、鹿島槍の品のいい美しい姿を殊に双耳の間の吊尾根を愛でた文章は、微笑ましい程である。
行楽の秋、八方尾根のリフトを乗り継ぐと山は大勢の人で賑わっていた。ガスで視界が悪いが八方池の辺りから青空が覗き始め、緑の林床に赤や黄色に紅葉した樹々、ダケカンバの白い幹が目立つ。ああ美しい、期待したアルプスの秋模様に感動で心踊りつつ、どんどん高度を稼ぐと私の羨望する不帰の嶮がカッコイイ!その豪快な岩稜が凄まじく迫る。
唐松岳は優美な線を描き、白砂地にハイマツが広がり茶けた草地も付き従う。頂上に立つと、東に切れ落ちた(左右非対称山稜と呼ぶのは後日知る)後立山連峰が南北に長く繋がり、その形間近に白馬岳への険しい稜線が秋色に鮮やかに浮かぶ。五竜方面は逆光に霞むが、深田氏の好む餓鬼谷の底から一気にせりあげた堂々とした姿勢で、張り出した尾根の立派な重量感を一番感じる処である。
五竜山荘から朝、山頂に立つと、西に黒部の谷から峨峨たる剱岳そびえ、東に何処までも広がる雲海、北に昨日の唐松と白馬への山稜が、南にこれから行く落ち込んだ八ツ峰のキレットの岩稜の先に双耳の鹿島槍が大きく立つ。そして朝陽が雲を光の海にして、山も人も全てを輝かせるのだ!
ガレた道を急降下していき、幾つかの岩峰を越す。何度も振り返り仰ぐ五竜岳はゴツゴツした山肌を見せ、幾つもの沢筋を底まで延ばし、光線も良くて立体的な山容が素晴らしい。
晴天下、雲海の上を歩く喜びに笑顔を抑えきれない。ご機嫌で絶好調だった。キレット小屋の手前で福島の4人グル−プに声をかけられコ−ヒ−お菓子をご馳走になって以後は、同行する羽目にあう。八峰キレットは何処が危なかったのか思い出せない。細い岩稜を鉄梯子で伝ったりはしたが、ウ−ン、呆気ないほどで過ぎた。
しかし、このグル−プ異様に足が速い。どんどん登山者達を追い越していく。高揚感につられて付いていくが、鹿島槍への登りがきつく、息が上がる上がる。北峰へは寄らず、やっと南峰頂から振り返ると、今日来た稜線が波打って、防波堤のように白い雲海が打ち寄せる。見下ろすと、すっと深い黒部の谷底と、そこから登って来たかのような苦しさで顔をしかめた登山者が、登ってくる。冷池山荘へはハイマツ帯を下る途中、ブロッケンが現れた。雷鳥も沢山見た。
翌朝は、小屋前で御来光を拝み爺ガ岳を登る。朝陽に染まる鹿島槍が美しく、雲海からは富士山が覗き、南に憧れの槍や穂高、広い北アルプスの山波連なる。ようやくグル−プと別れて、のんびり展望を楽しんだ後、種池山荘からゆっくりと紅葉素晴らしい樹林帯を下った。
この年の豪雨は、北陸地方に集中し大災害をもたらした。そうして、黒部渓谷鉄道が不通になった為、仙人池から裏剱を拝む私の計画は崩れ去り、室堂からのピストンとなった事今も口惜しい。
初日はのんびりと、雷鳥沢で温泉に浸ってから別山超えをして、剱沢野営地にテントを張る。剱沢は別山の支尾根と剱御前に挟まれ、所々小さい雪田が残るガレと緑の原の広がる地で両山腹を横切る道が剱岳目指して続く。お盆も過ぎたこの時期は込み合うこともなく、艶やかな秋との狭間のちょっと寂しい季節でもある。日中はガスでなかなか頭を出さなかった剱も、夕方、薄紫と黄金色の雲を従えて現れた。異様な位美しい夕焼けだった。
翌朝、何となく天気も勝れず、前剱までガスがかかっているが、出発する。するとどんどん、青空が開けてくるではないか。やったぁ!大日岳や、どっしりとした岩峰の前剱の前でも、浮かれたポ−ズの私が写真に沢山残る。痩せた剱沢雪渓が見下ろせ、その先はあの後立山連峰が、鋭く尖る鹿島の槍を中心に展開する。立派に見えた前剱も過ぎてしまえば、ただのピ−クにすぎず、だんだん近づく大剱の迫力に狂喜する私であった。登り切るのが勿体無く、その荒々しい英俊な岩峰に魅入ってしまう。
いよいよカニのタテバイだ!しっかりした太いボルトに掴まったり、踏みつけたりを繰り返すのも、一瞬で何のことはない。勿論、三点支持の姿勢は忘れない。山頂は、まさに絶景かな。頂から延びる断崖絶壁の八ツ峰尾根の向うに、昨年登った後立山の山波、そして立山の向うに未踏の薬師、黒部五郎、笠、双六、水晶その他憧れの山々がいっぱいだ。この時何度教えてもらっても、どれだかよく山の名前は判らなかったが、ともかく喜びひとしおで、それらに手を振り振り、「これから行くまで待っててね〜」と愛想も振る振る!
寒くても、居飽きることなく長々と遊んだが、雲行き怪しくなってきたので下ることにした。ヨコバイも全然恐くなかった。前剱で振り向くともうガスが迫ってきた。テントに戻るとまたちょっと晴れたりして良く判らない天気であったが、夕方には結構雨が降ってきたので、剱沢小屋に避難した。シャワ−が使えて嬉しい。
翌朝雨の中、帰途につく。今度はミクリガ池温泉に浸って室堂に着いた。登頂時だけ晴れたラッキ−な山行だった。全く、剱岳は名の通り太刀のごとき容姿で、鋭く険しい。その姿は、富山側から望んだ時、見た者を圧倒する強さで谷底からそびえ立つのだ。
後年、猫又山から見たあの迫力を、私は忘れないだろう。また、富山市内からも立山連峰と並び、空にそびえる景観は素晴らしく、私の心を高揚させる。こんな立派な山が無造作に、眺められる富山県人が羨ましく妬ましい。あの端っこに連なる名前無き峰一つでいいから、関西に置いてくれないかしら…。深田氏お勧めの角度はやはり、仙人池からで、有名な逆さ剱も映るらしい。
1999年剣北方稜線毛勝三山縦走「いずこの山もそれぞれ」記録参照
万葉の頃から登られてきたこの山は現在、観光地として最も親しまれているのではないか。ほんの数十年前まで白衣姿の信仰登山者であふれていたはずである。
信仰対象の山は女を近づけまいとした多くの伝説があり、憤慨させてくれるがそれはさて置き、百年以上前にこの山を登った外国人の記録が、大変おもしろい。彼こそ、日本アルプスの開祖として毎年「祭り」にまでされているウォルタ−・ウェストンその人でその有名な著書『極東の遊歩場』(新訳『日本アルプズ』『日本アルプス再訪』)をぜひ一読されたい。
この立山参りの人々や儀式、山から富山、〜神通川・高原川沿いを通って平湯までの徒歩!(所々荷車と人力車)旅行の記録が詳細に記されており、いかに困難に満ちながらも面白く楽しい旅の様子が伺える。イギリス人的皮肉に満ちた表現がよく利き、私達の想像する宣教師のイメ−ジをぶち壊す人間臭さに溢れ「何しに来たんや、このヤソ坊主!」と笑わせずにいられない。
深田氏の記録もアルペンル−ト開通前のこと、人は困難を愛すものであるのか、時差のある両氏でさえ各地の観光化を嘆くのに、更なる現在、以後日本はどうなっていくのでしょうか。そんな思いや先達の苦労知らず、のほほんと室堂に立った私であった。白馬に次いで、一泊二日で登れるアルプスとして、そして買ったテントが私でも使える山として。
野営場までほんの数十分運ぶだけと思ってたのに、この夏の飯豊連峰テント縦走が嘘のように重くて辛かった…。けれども余りの晴天に嬉しくて、ミクリカ池に映る立山や、一面灰白色と硫黄色に煙噴き上げる地獄谷を見て回る。そして雷鳥沢で受付をすましテントを張ると、まず大日岳目指し出発した。
緑の草地も所々黄葉してリンドウやアザミ等が咲き、澄んだ空を流れゆく雲の夏ともつかぬ姿にやはり秋の兆し感じる頃であった。いつか登るはずの剱岳の雄姿を眺めつつルンルンいくと奥大日にすぐ着いた。休んでいるとガスがかなり出てきたし大日までは遠いので、ここでよしとしてテントに戻る。ヒュッテの温泉に入ったり夕食を食べてる間は山は暗雲に覆われて見えなかったけど、夕方また晴れてきた。
翌日、一ノ越から雄山までが、また難渋した。朝日はもう大日や室堂を照らすのに、登る道は山陰の中で、寒いし軽い高山病だったかもしれない。とにかく、色んな人に追い抜かれてフラフラで、雄山神社にたどり着いた所、やっと光を浴びて元気なった(光合成する体質なの)。その後は、晴れ上がった空にどんなに上機嫌で、大汝〜真砂岳〜別山へと縦走したかは、想像できるでしょう。とりわけ私を喜ばせたのは、真下にたたずむ黒部湖であった。昔、家族旅行でアルペンル−トで来た時見たけど、自分の足で登り真上から、改めてその大きさ・形・色を眺めて感無量、社会の授業で習ったダムの話を思い出す。カ−ルや後立山、剱、大日、振り返る立山の展望、場所場所で休みながらゆっくりテントへ戻った。もう一度温泉に入って室堂からもうバスに乗って、安直に帰ったのは言うまでもない。