時々山では、素晴らしさに感激して楽しくて有頂天になり本当に全身全霊で幸福を感じる時がある。このような感動、或いは高揚感を無邪気に感じることは今は少なくなった。つい何処ぞと比べたり思い考える事多くなったからかもしれない。ある人が言うに、そこにあるものから経験を引いて残ったものが感動である。とするならば、経験を積むほど無感動になるのだろうか?より刺激を求めて彷徨うのだろうか?全く否とは言い切れない。しかしながら、山は知れば知るほど奥深く、新しい発見を求めて、又その個性や美点を見いだす為に、知識や感性を少しなりとも磨く力、機会が増えた事を嬉しく思う。「いずこの山もそれぞれ」に愛す夫に、教わったものは大きい。でも私は光合成をする質なので晴れてさえいればいつでも上機嫌になれるのだけどね。
さて百名山の道程は、1993年迄に11座あり、登ると決めてから94年22座、95年33座、96年14座、97年12座、98年8座で完成した。97年20代中に終了する予定だったが96年に結婚したのでぺ−スが落ちた。それはともかくとして、こうして書いていくと、色んな感慨あり、無知と無謀と年齢柄、年毎に変わる環境が私小説を綴っているようで恥ずかしい…。
写真は吾妻連峰谷地平にて
●蔵王山1841m(熊野岳)●飯豊山2105m(飯豊本山)●吾妻山2035m(西吾妻山)●安達太良山1709m●磐悌山1819m●会津駒ヶ岳2133m
百名山の中で、ワ−スト1、2位を争うだろう。山が悪いのではない。余りに情けない体験なのだ。なんてったって蔵王といえば、その美しくエメラルドグリ−ンの水をたたえた「お釜」だろう。『蔵王の至宝』と言うべき存在を見ずして語る資格はない。そう、天気が悪くてロ−プウェイを使い、熊野岳を往復しただけなのだ。
一面真っ白のガスで不安な中、数m毎に立てられた目印のポ−ル一つ一つを頼りに進む。火山岩の砂礫地で緩やかな登りだが不気味だ。山頂の神社でこれからのお天気回復を祈願して早々に下山した。真っ白の山頂は数々踏んだが、「お釜の見えない蔵王」なんて屈辱以外の何ものでもない。といいつつ、来た以上登らずに、ピ−クを踏まずにいられない私であった。
蔵王温泉はきついらしく、いつもして入る高級ダイバ−ウォッチ(貰いもの)を外すよう地元のおばちゃんらに方言で話しかけられ、他いろいろお話が聴けて(半分わからなかったけど)、面白かった旅の思い出となる。でもいつか蔵王連山の縦走を実現させたい。ちなみにもう一つのワ−ストは「富士山の見えない大菩薩嶺」である。
朝日連峰と並ぶ東北の2大山岳地域である。山小屋は(ぼろそう)、非常に混雑するらしいのでテントを担いでの初縦走だ。不安だし日程が合ったので、ハイキングの同会員のU氏に同行するが、歩調が全然合わず、テントも食事も別にしたので、単独の感じだったな。
初日は、地元の人は登りに使わないらしい急登が長く続く梶川尾根で、よく「きつい」と聞く尾根だ。途中の五郎清水の水は非常に美味しく、谷筋の悪名高き、石転び雪渓が長く続くのが途中から覗ける。稜線に立つとマツムシソウ、トリカブト、ハクサンシャジン、シシウド、キリンソウ、トラノオ、キンコウカ他花花花、素晴らしいお花畑が広がって感動する!が、一面ガスが掛かかり、思えばお花達も秋花が多くチングルマも綿毛を出し、夏の華やかさ過ぎてちょっと寂しい縦走路だったかもしれない。
梅花皮(かいらぎ)小屋前で、この縦走の為に買ったテントを張ると、夕方少し晴れてきて、登ってきた北股岳、眼前の梅花皮岳、向うに最高峰の大日岳の尾根が張り出しているのが確認できる。また膨大な雪田と、深く谷間へ落ち込んだ地形が、日本アルプス(この頃アルプスは知らなかったが)に、勝るとも劣らない雄大さと険しさで圧倒する。
翌日もガスの中視界が効かず、広い広い雪田で幾筋もトレ−スがあってホワイトアウトしそうになりながら御西小屋に着いたものの、展望がないので、念願の大日岳を往復するのは諦めた。時々はガスの切れ間から、だだっ広い白と緑の稜線と飯豊山が覗いて見えるのだが、山頂では濃霧雨となってしまった。
その晩低気圧が通り、本山小屋前のテントの中で吹き荒ぶ暴風雨に震える。その次の日は回復過程であるもののガスよぎる中、飯豊の最終日なので、お花達や雄大な見える限りの山々に感謝と別れを告げながら名残り惜しみつつ地蔵山からぬかるんだ長坂を下った。
それでも山歩きは楽しく、下りは終わるのがいつもちょっと寂しい気持ちになる。そして道は大好きなブナ林であることを知りもしないで、気持ち良い森と感じた。ところで樹林(特にブナ林)が注目されだしたのは古くなく、それまでは「苦しい樹林帯の登り」としか表現されなかったらしい。私は木が大好きなのだが、未だに名前が分からなくて悲しい。
この縦走は所謂、飯豊の枕詞の『残雪とお花畑』こそ堪能できたとは言え、天気に恵まれず余りに勿体無い山行だった。必ずや登り直してやると固く決めてはいるものの、なかなか難しい山なのだ…。飯豊鉱泉宿泊後、一人晴れ渡った東北を北上(早池峰、岩木、ねぶた祭りに向かう)した。
この年は山狐に憑かれたように、山に出かけていた。何事も初めて2、3年目の頃が楽しくて仕方ないものであるが、その入れ込み様は、尋常でなかったかも知れない。この頃夫は広島勤務なのによく付いてきた。余りにいじらしいので、おつきあいしていた山男とはお別れしたが、いろいろあったものです、20代は。
飯豊、朝日に次ぐスケ−ルを持つ吾妻連峰は沢山の山を連ねてはいるが特にシンボリックな山がなく「茫漠としてつかみどころがない」とされている。私達は私の計画通り西大嶺−西吾妻山−東大嶺−谷池平−一切経山と縦走した。
ここが最高峰にしては、敬意を示されていなさ過ぎる西吾妻山の山頂だ。林の中に刈り込みがあって道標あるだけで、展望もなければピ−クらしさも全くない。ガス天の霧雨の中、早々に宿泊地の弥兵衛平小屋に入る。湿原や池塘のある良い所だ。
翌日も曇天だが、回復しつつあり時々は晴れ間も覗き、嬉しくなる。茶けた湿原とハイマツ等の濃緑の交錯した広い原が続き、雲海の向こうに蔵王連峰の山瑰が浮かぶ。谷池平は、ひっそりした湿原帯で、吾妻の主な山々に囲まれた箱庭的な美しさの別天地で、一番好かった場所だ。山はシラビソ等針葉樹の濃緑の中に紅葉した樹が点在し、日が射すと黄金色に輝く草の原に古びた木道が続く。
そして姥沢添いの樹林帯の途中、彼は私のあげたザックカバ−(彼の装備はとてもボロかったし、カバ-は持ってなかった)を失った事に気がついた。止めるのを聞かないで、捜しに行った彼の、それを見つけて意気揚々と戻ってきた時の笑顔が、可愛かったな。
先の姥が原は、日本庭園風と言おうか、火山性の奇岩が転がりその間を笹と赤く染まった高山植物等が可憐な風情を見せている。立派な木道になる鎌沼の辺りで一休みし、お湯では戻らない「水戻しきなこモチ」等頬張る。
これまで誰にも出会わなかったが、だんだんと人間が現れだし、一切経山は結構な賑わいとなった。ここは火山の赤茶けた山容で、その砂礫帯と境界をくっきり分ける緑の草木に縁取られたコバルトブル−の五色沼が見下ろせ、ガスと薄青空の下に神秘的にたたずんでいる。遠望が利かないのは残念だがその分、しっとりと色彩が深く増してる様だ。しばらく楽しんだ後、頭半分が大火口の有名な吾妻小富士の姿を眺めつつ浄土平へ下った。
なだらかな縦走で楽勝と思っていたのに、泥濘(ドロヌマ)に格闘するハ−ドな山行で全身泥まみれになった。尚、天候に関わらず、家形山の方を通る山縦走コ−スを通っても泥濘らしい。残念だったのは、多々ある登山口はどこも良質な温泉地らしいのに、夜行で入り、次の山へも急いだため、吾妻の温泉に入れなかったことが思い返すも口惜しい。
先日ラジオを聞いていたら懐メロ特集?だったのか、「♪東京に空が無いと智恵子はいふ〜あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川〜♪」とかいう古びた歌謡曲が流れてきてぶっ飛んだ。初めてこんな歌があったのを知ったが、お懐かしい人もいるでしょうか?
安達太良と言えば、『智恵子抄』。この山の名を不朽のものにした高村光太郎の余りにも有名な詩の方は、ご存じですか?実は私、登った時知らなかったんです、あ−恥かし−(智恵子抄に関係があるらしいのは知ってたけど)。
さてこの時も曇天で、くろがね小屋まではツツジ咲く林があったものの、先は所々雪田残しながら火山特有のガレた殺風景な急登だ。まず鉄山、馬ノ背牛ノ背を通り溶岩峰の安達太良本山に登る。どちらも真っ白。覚えているのは、如何にも活火山といった風情のみで、この数年後火山ガスで大事故も起こったのも有名ですね。
ゴンドラで下り奥岳の温泉に入って早々に引き上げた。ちなみにこの同行者は、前年北岳〜農鳥岳縦走で出会った横浜に住む山男で、他の山にも沢山行きました、本当にお世話になりました。
お岩木山に次ぐ体たらく!赤殖林道を車で上がれば往復1半〜2時間。だって濃い霧雨だったんだもん。私だって、磐悌山の表の秀麗な山容と、裏の峻嶮な爆裂火口と湖沼群を楽しみたかった。でも表はスキ−場だし、裏は一大観光地っていうから仕方ない。
ガスの中、白い花(6月にコブシ?)やピンクのツツジが新緑の森に咲き、悪くない。山頂は、岩ゴロの台地で磐椅神社が祀ってある。緑の原が広がり小さな沼も見えた(沼ノ平?)。ちなみに夫が一人で行ったときも曇天で「うん、スキ−場の山だ。」 と言っていた。おお会津の宝の山よ、会津富士よ、すまないねえ。
前年の尾瀬の帰りに登る予定だったのに、台風が直撃したのでさすがに諦めた。勤めていた会社の上司であり、山の弟子であり(と私は勝手に思っている)、ハイキングの同会員のN氏と結婚前の夫らと、檜枝岐の温泉に浸ったり、そのプ−ルで彼らがはしゃぎ遊ぶのを見ていた。
東北と言うか、上越の山は紅葉素晴らしく、秋に行くのが恒例となっている。会津駒ヶ岳はあの尾瀬のすぐ北東にありながら静寂さを保ち、山上に広い湿原と池塘を持つ、南会津の名峰である。著者の深田久弥氏も、その素晴らしさに興奮しすぎて道を誤ったとある(笑)程素晴らしく、この時も眼の覚める鮮やかな紅葉と展望にただ感嘆するばかりであった。
小屋一泊分(素泊まり)と野営装備(次の平ガ岳用)を持っての登り道は辛かったが、樹林を抜けると茶褐色の湿原と緑の笹原が広がり、真赤や黄の低木と針葉樹シラビソの深緑入混じる別天地が続く。駒岳写す駒ノ池の前の小屋はこじんまりした綺麗な小屋で、荷物を置いて山頂を往復した。
午後でガスが出ていたが、その翌朝こそは秋晴れの澄んだ空気の中、輝ける朝陽が湿原を黄金色に変え、全てを鮮やかに映え照らす。池塘らは鏡のように青空を写し、なだらかに広がる長い湿原尾根を身をくねらせた一匹の蛇である木道が何処までも続いていく。雲海に沈む尾瀬の原からシンボルの燧ガ岳の双耳峰が秀麗にそびえ立ち、至仏山が尾瀬が原を優しく抱く。奥は修験道場上州武尊山や日光の山々、平らな平ガ岳や荒沢、越後三山、浅草、守門等奥只見湖を巡る山々、他周辺の数え切れない名山が取り巻く展望の良さ(氏はそれ等を名指すに一時間!)だ。
驚きは中門岳!頂が池であり(実際はその一帯を言うのだが)、辺りの秋景色を静かに湛えてたたずむ。更に木道は続き、最果ては草紅葉に囲まれた小さな池塘をぐるりと取り巻いて元に戻る。雲上の楽園というにふさわしい景観であった。尾瀬へ続く尾根を下りると長いので途中キリンテへ下る。紅葉の樹林道もまた素晴らしく、盛秋を楽しんだ。