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ヘンリー・カウエル、クロフォード・シーガーからボブ・デュランまで

ルース・クロフォード・シーガー(Ruth Crawford Seeger 1901-1953)は、アイヴスヘンリー・カウエルカール・ラッグルス等とともに20世紀前半のアメリカを代表する作曲家の一人であり、とくにその1920−1930年代の作品はこの時代の最も進歩的で高度な音楽として評価が高まってきている。
 さて、そのルース・クロフォード・シーガーのプロフィールについて簡単に基本事項を知っておきたいと思い立ち、いくつかの資料に目を通してみると、周辺に私の今までほとんど知らなかったとても興味深い広がりがあるのに驚かされた。
夫のチャールズ・シーガー、その弟子であり同僚の作曲家ヘンリー・カウエル
フォーク・シンガーとしてアメリカのポピュラー音楽に大きな影響を与えるピート・シーガーをはじめ、チャールズ・シーガーの子供たちである。

ルース・クロフォード・シーガが1929年以降、作曲を学び、1931年には夫となったチャールズ・シーガー(Charles Seeger 1886―1979)は、音楽学者・作曲家・音楽評論家として大きな影響を20世紀の音楽と音楽学にもたらした重要な人物であるようだ。私自身は、その論文や文章には接したことがなく、オリバー・ナッセン指揮シェーンベルク・アンサンブルによるルース・クロフォード・シーガー作品集のCDに、チャールズ・シーガのごく短い作品『John Hardy』(1940)が入っているのを聴いただけなのだが、これはパーシー・グレインジャー(Percy Aldridge Grainger 1882-1961)のフォークソングのセッティングに匹敵するほど面白いものだ。オーケストラがバンジョーをかき鳴らしながら歌うような音楽と例えられる。
 以下、ニューグローブ音楽事典のAnn M. Pescatello(皆川達夫訳)による記述を参照してチャールズ・シーガーのプロフィールをたどってみる。

 1908年にハーバード大学を卒業、1910−1911年までケルン・オペラの指揮者をつとめた後アメリカ合衆国に戻り、1916年にはカリフォルニア大学バークレー校でアメリカ合衆国ではじめての音楽学の講義を行っている。さらに、1932年にはアメリカ合衆国で初めての民族音楽学の講義ヘンリー・カウエルとともに行い、作曲活動の支援にも様々に関わっている。ルース・クロフォード・シーガーが作曲の弟子となったのは1929年であるから、ちょうどこの時期である。1935年にはルーズヴェルト大統領再入植管理本部の音楽顧問になるなど重要な公的地位にありながら、北アメリカ、ラテン・アメリカにおいての数多くのフィールド・ワークを指導している。
ニューヨーク音楽学会を創設し1930〜1934年議長、1934年にはこれがアメリカ音楽学会となって1945〜1946年には会長も務めている。
アメリカ比較音楽学会(1935会長)、民族音楽学会(1960−1961会長)などの創設にも関わっている。
「さまざまなタイプの音楽すべてに西洋芸術音楽の見地から評価を下すことは文化的な時代錯誤であると指摘し、西洋音楽以外の音楽の多くでは作曲者よりもむしろ演奏者のほうが主な創造者または再創造者であると力説した。」
「《音楽評論に寄せる序文》(1963)では、客観的に記述する術のないままに価値判断を下して芸術音楽と民俗音楽を評価する慣習を批判。」
「《諸機能の流れにおけるー機能としての音楽のプロセス》(1966)。人間をその社会的階級で分類すること、〈国民音楽〉という表現の限界についても批判している。」
「最初の妻コンスタンスとアパラチア民謡の録音と採譜を行い」
「ルース・クロフォード、ジョン・ローマックス、アラン・ローマックスとともにアメリカの民俗音楽研究書の中では、重要な著書とされる《アメリカ合衆国の民謡Folk Song :U.S.A.》(1947)を出版」


 1930年代は、アメリカ独自の音楽への意識が非常に高まった時期で、コープランドロイ・ハリス(交響曲第3番は1939年初演)、W.シューマンが登場し、アイヴスへの評価が始まり、初期のアメリカ音楽や民謡への関心が高まった。
このあたりの事情については、ロバート・P・モーガン編、長木誠司監訳《西洋の歴史と社会11、世界音楽の時代》(音楽の友社刊1997)の第3章、"合衆国:1918年〜1945年"、キャロル・J・オージャ(川西真理訳)P67-P69)に詳しく、ここに、チャールズ・シーガーの言葉が引用されている。
 「世界の音楽における自分の位置は、アメリカ音楽とアメリカの生活における自分の位置をみいだすことによって定まるだろうということを、プロの作曲家達が胆に銘じることが先決だと思われる。」(1939)
同書には、レオ・サワビールース・クロフォード・シーガーが伴奏をつけた《アメリカン・ソングバッグ》(1927)セシル・シャープ(注)の《アメリカにおけるイギリス民謡》(1918)など多くの民謡集がこの時期にあらわれたことも言及されている。
 (注:ヴォーン=ウィリアムスやホルストなどに大きな影響を与えたイギリスの民謡研究者)

 チャールズ・シーガーに学びはじめる1929年以前に、すでにルース・クロフォード・シーガーは、"Music for Small Orchestra"(1926)といった作品を完成させていて技術的にも内容的にもしでに極めて高い水準にある。
 ナッセン指揮のCD(DG449―925―2)のJudith Tickによる解説によれば1920年代にはヘンリー・カウエルがすでに彼女の作品を高く評価しはじめていたようだ。
そのヘンリー・カウエルは、1914年頃からチャールズ・シーガーに作曲を学んでいる。
(Henry Cowell "Percian Set"ほか収録のCD(Koch3−7220−2H1)のDana Paul Pernaによる解説(1993)参照)
 アメリカ実験音楽の先駆的最重要作曲家の一人ヘンリー・カウエル(Henry Cowell 1897-1965)は、ピアノの内部奏法、トーン・クラスターといった手法を1910年代から1920年代にすでにとっている。(前掲書《西洋の歴史と社会11、世界音楽の時代》P57参照)
カウエルは、ずでに触れたように1932年にはアメリカ合衆国で初めての民族音楽学の講義をチャールズ・クロフォードとともに行っている。また、「1931年から1932年にかけてベルリンで民族音楽学者エーリッヒ・フォン・ホルンポステルと、インドおよびジャワの音楽家に師事している。」(前掲書《西洋の歴史と社会11、世界音楽の時代》P63参照)
 カウエルの関心は、『打楽器協奏曲』などにみられるガムラン音楽の影響から、『賛美歌とフーガ風の調べ』におけるアメリカの独立戦争時代の賛美歌『ペルシア・セット』におけるイランの音楽まで幅広く、これには同僚のチャールズ・シーガーの世界の音楽への視野と見識が影響を与えているに違いない。
 カウエルは、実験音楽の文脈から言及されることが多いが、実際の作品はむしろ、アメリカを含む世界の様々な地域、音楽文化、伝統など、多元的な音楽文化への広い視野をもった音楽家としての側面が強く感じられる。
 同時にカウエルは、シェーンベルクの影響も大きく受けている、1932年にはウェーベルンがカウエルの作品を指揮している。(Henry Cowell "Percian Set"ほか収録のCD(Koch3−7220−2H1)のDana Paul Pernaによる解説(1993)参照)
 カウエルの"Variation for Orchestra"(管弦楽の為の変奏曲)は1959年の作品だが、12音によるテーマに、非常にガムラン的に変奏され、カウエルの2つの側面が同居した典型的なものだ。このカウエルのもとからジョン・ケージルー・ハリソン(Lou Harrison 1917〜)が登場してくる。ルー・ハリソンはカウエルの後継者だと私はとらえている。

 さて、ルース・クロフォード・シーガー1920〜1930年代の代表的作品は無調的で、セリー化の先駆的手法や、グリッサンドなどの進歩的用法高度な組織化など、20世紀中後半の西欧現代音楽の主流と言われてきた前衛の立場から高く評価される材料が揃っているようだ。ルース・クロフォード・シーガーは1920年代にはすでにヘンリー・カウエル等によって高く評価されはじめ、1933年にはアムステルダムで開催されたISCMで作品が演奏されているとはいえ、一般のコンサートやCD録音で作品に接する機会がでてきたのは事実上1990年代になってからだろう。1996年の三省堂刊の《音楽作品名辞典》には項目さえない。
 ルース・クロフォード・シーガーの作曲技法について具体的に述べるだけの知識はないので、詳しく触れることはしないが、その音楽は20世紀半ばのヨーロッパ前衛と多くの共通点はあるとはいえ、むしろアイヴスの音楽の無調的な部分と共通する多様なニュアンスを複雑に包含した、表現力と喚起力、聴く人を惹きつける持続力をもった精神的集中度の高い音楽で、神秘的な面も感じさせる。ナッセンの指揮によるCDのJudith Tickによる解説は、スクリアビンの影響と、超絶主義(トランセンデンタリズム)へつながる折衷的Meta-Mysticismや詩人Carl Sandburgとの関わりに言及している。
ルース・クロフォード・シーガーは、1920年からシカゴで理論と作曲を学び1929年からは、後に夫となるチャールズ・シーガーに作曲を学んでいる
 最も身近であった作曲家ヘンリー・カウエルのもっていたシェーンベルクの音楽への関心は、彼女の音楽が無調的であること、セリー的思考をもつ重要なきっかけの一つであったと考えられる。
 しかし、ルース・クロフォード・シーガーの音楽は、決して新ウィーン楽派のアメリカにおける亜流ではなく、非常に個性的なものだ。彼女がチャールズ・シーガーから学んだ"dissonant counterpoint"(不協和対位法)とはどのようなものだったのだろう。
(ナッセンの指揮によるCDのJudith Tickによる解説参照)
(ニュー・グローヴ音楽事典「ルース・クロフォード」の項。Matilda Gaume 柿沼敏江訳 参照)

 
 傑作とされれる1931年弦楽四重奏曲を完成させた後、ルース・クロフォード・シーガーの活動はいわゆる前衛音楽の推進者とは異なった方向へと進む。
 「1932年から33年の冬にかけて、もう一つの団体が登場した。ニューヨーク作曲家集団である。このグループの目的は作曲活動を社会革命の武器として用いることにあり、グループ自体がアメリカ共産党の機関である労働者音楽組合の一部門であった。この時期の多くの作家や知識人達と同じように、多くの作曲家たちも共産主義を希望に満ちた理想とみなしていた。」(ロバート・P・モーガン編、長木誠司監訳《西洋の歴史と社会11、世界音楽の時代》(音楽の友社刊1997)第3章 合衆国:1918年―45年 キャロル・j・オージャ 川西真理訳 P66より引用)
 チャールズ・シーガーは"Dairy Worker"(The America Communist Party newspaper)に音楽批評を書き、ルース・クロフォードも非常に政治的メッセージを先鋭的に打ち出した"2 Ricercare for voice and piano"(1932)を作曲するなど、共産主義的左翼的な立場を表明するようになる。(ナッセンの指揮によるCDのJudith Tickによる解説参照)
 しかし、夫妻のこの政治参加の姿勢は、"People's Music"「民衆の音楽」という視点へと移り、前面には出てこなくなる。赤狩りの時代に、夫妻が社会的地位を失わなかったのはこのためだろうか。
活動は先にも触れたアメリカ民謡の収集、研究、出版といったものへと重点が移っていく。  

ナッセンの指揮によるCDのJudith Tickによる解説にはその後の活動について以下のようなことが書かれている。
1935年(注)からルース・クロフォード・シーガーが、まま子であるピート・シーガーとともに経験するアメリカ・フォーク・ミュージックの再発見。1936年以降、ルース・クロフォードがこの、「フォークソング・リバイバル」に全面的に関わり、多くのアメリカ民謡(Folk Music)の収集、編曲に携わったこと。1952年まで、オリジナルな作曲を再開しなかったということ。1952年の"Suite for wind quintet"で再開された作曲活動は、1953年のルース・クロフォード・シーガーの死により終わってしまう。
(注) 1935年は、チャールズ・シーガーがルーズヴェルト大統領再入植管理本部の音楽顧問になり、北アメリカ、ラテン・アメリカにおいてのフィールド・ワークを指導しはじめた年でもある。
 
 シーガー夫妻の子供達(ピート・シーガー、マイケル・シーガー、ペギー・シーガー)は、こうして再発見されたアメリカ・フォークソングを基本レパートリーとしフォーク・シンガーとなった。(ペギー・シーガーはイギリスに帰化し、イギリスの民俗音楽復興にかかわる)
 とくに
ピート・シーガーフォーク・シンガーとして非常に大きな存在となり、アメリカポピュラー音楽の最も重要なミュージシャンの一人となり、夫妻が一時期そうであったように、社会的・政治意識をうちだし、チャールズ・シーガーの重要視したパフォーマーの創造性をもって、その後のアメリカポピュラー音楽における「フォークソング・リバイバル」を大きく推進していく。
このピート・シーガーウディ・ガズリー等とともに結成していたのが「アルマナック・シンガ−ズ」(後のウィ−バーズ)であり。この「アルマナック・シンガ−ズ」のウディ・ガズリーに会う為、ニューヨークへやって来たのがボブ・ディランなのだ。
ボブ・ディランは、ピート・シーガーの歌う"Guantanamera"を聴く事が好きであるとも言っている。
2000年2月2日
近藤浩平 記

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