作品がコンクール本選会での演奏審査に選ばれたため、東京都小平市のルネこだいらで1999年1月9日、10日の2日間にわたり行われた本選会を聴く機会がありました。1月9日は連弾のための作品部門、1月10日は2台ピアノのための作品部門であった。この本選会を聴いての感想を少し書いてみます。
いろいろな傾向の応募作品が混在しているコンクールで、これだけ多くの作品を音にするという点でもユニークなコンクールだということが言えます。
これだけ方向性と目的の異なった作品、調性的教育用作品のようなものからほぼ19世紀ロマン主義的もの、まったく「現代音楽」の語法によったものなど、同列に審査対象とし、順位をつけることには、大きな意味はないでしょうが、応募作品のうち可能な限りの多くの作品を演奏するというこのコンクールの方針、スタイルによる排他性がないこと、演奏者のレパートリーとすることを意識した目的意識など、多くの点で、このコンクールはもっと知られてよいと思う。演奏のレベルは全体的に高く、一般の音楽ファンにも親しみやすい東欧圏、ロシアなどの作品が多いことから、ピアノをされている方、音楽教育関係の方を含め、もっと多くの人にコンサートとして聴いてもらっておかしくないものなのだが、わずかな関係者がぱらぱらといるだけの会場は、「国際ピアノデュオ協会」という全国組織、代表をピアノデュオの世界では知らない人のない児玉幸子氏が務められている会の主催事業としては不可思議である。メディアの後援もとりつけているにもかかわらず、来賓が増えるだけで、実質的に活用されていない。
観客動員と、コンクールの存在意義をアピールするメディアへの露出などが著しく不足している。広報リリース体制が非常に不備なのではないかと思われる。各音楽雑誌のコンサートスケジュール欄など広告費の支出をともなわない告知PR手段もほとんど活用されていない様子である。協会はサイトさえもっていないようだ。新聞社、地元自治体の広報、後援メディアの協力など、可能な手段はいくつもあるだろう。前回までは、開催後の記事などを含め比較的メディアの露出があったが、今回とくにメディア露出が欠けているのは大きな問題ではないだろうか。音楽は聴く人がいてこそ成り立つもの。これだけの内容の催しものを実施しながら、社会、音楽界への働きかけが乏しいのはあまりにももったいない。
国際コンクールとは言え、主催の「国際ピアノデュオ協会」は日本の団体であり、応募作品46曲中21曲が日本の作品、海外からの作品は、この協会の支部があるなど何らかの特別なつながりのある地域からの作品にほぼ限られており、実質的には国内+協会としての海外招待作品といった組み合わせの観がある。海外からの応募はタタール4、ロシア13、ブルガリア5、ウクライナ1、韓国1であり、その他の国からの参加はなかった。これら海外の応募作曲家のほとんどは、前回までのコンクールにも応募している作曲家で、ほぼ常連化となっている。
今回大賞となったブルガリアのヨシホフ等をはじめ参加している東欧、ロシア等の作曲家は、当地では音楽教育機関の教授であったりするなど社会的地位をかなり得ている人達のようであるのだが、現代音楽の作曲関係の文献等では全く馴染みのない名前ばかりであった。作風からすると、旧東側の社会主義リアリスムの路線から大きくはずれることのない穏健な職業的作曲家達のようであり、西欧やアメリカの現代音楽の「前衛音楽」の傾向とは何ら関わりを持っていない人たちのようである。
一方、日本国内の応募作品は、連弾作品などに一部全く調性的なピアノ教育用作品といった趣きのものもあったとはいえ、スタイルとしては所謂「現代音楽」らしいものが多く、この点「日本音楽コンクール」「吹田音楽コンクール」など多くの作曲コンクール応募作品の傾向と同様であった。ちなみに、2台ピアノ部門の1位と3位に選ばれた西澤健一氏と中川昭徳氏は前年の「吹田音楽コンクール」の入賞者、連弾部門の奨励賞となった井上淳司氏は「奏楽堂歌曲コンクール」の入賞者である。
このような日本の若手と、旧東側のかなり年齢的には高いと見られる保守的な作風の作曲家達を同じコンクールの土俵でどのように審査するのか、審査員の考え方がどうなるのか、私は興味深く見守りました。
審査結果は、連弾部門では1位にブルガリアのKrassimir
Taskov、 2位にロシアのYuri Kornakov 3位にブルガリアのAlexander
Yossifovと海外の作品が上位を独占。2台ピアノ部門では、大賞にブルガリアのAlexander
Yossifov、 1位西澤健一、2位ロシアのVitali Gewicksmann、
3位中川昭徳、奨励賞に朔むつみ、毎日新聞社賞に長谷川慶岳の各氏の作品が選ばれました。(私の「青と緑の稜線」は入賞せず)
海外からの作品と日本の作品が交互に選ばれ、ブルガリア大使館員も代理で表彰を受けることが出来、まずは目出度し、目出度しという結果です。
審査員は、小川侑俊、久保浩、ディミタール・クリストフ(ブルガリア)、児玉幸子、小林峡介、佐々木光、佐藤真、佐藤敏直、鈴木英明、溝上日出夫、トーマス・マイヤー=フィービヒ(ドイツ)、松本日之春、峰村澄子の各氏でした。作曲家と演奏家が半分づつという面白い構成になっています。国立音大と大阪音大の関係がメインとなっているようです。
大賞のブルガリアのヨシホフの作品をはじめ、東欧、ロシアの作品は、カバレフスキーやフレンニコフのような旧ソ連旧来のスタイルに、若干、民俗音楽的素材を導入したり、ジャズなどの欧米的な味付けをしてエンタテインメント性を加味したり、調性をよりあいまいにしてみたり、色々な工夫を凝らしたといった音楽で、ピアノデュオの特性をうまく引き出す美しい曲もありましたが、決定的な創造性を感じさせるものとは思えませんでした。どの作品もプロコフィエフより後向きな音楽と言えるでしょう。本選中、私も個人的に採点してみましたが、これら海外作品についての「私の審査」と審査員による審査結果は大きく食い違いました。2台ピアノ部門の大賞と2位の作品については、私は、職業的によく訓練された書き方がされ、演奏しやすくよく鳴るように書かれていることは了解できましたが、音楽的内容としては陳腐で全くおもしろいとは思えませんでした。むしろ、海外の作品で作風は保守的ながらも好感のもてる作品は他にありました。
日本の作品については、審査結果と、私が入賞を予想した作品はほぼ一致しました。
調性や規則的拍節を避けつつ、音型やリズム細胞などの素材を緻密な構想で息長く盛り上げて持続する緊張をつくりだす。大きなダイナミックスと広い音域を駆使して充実した響きの複雑な余韻を聴かせ、音への感性の鋭敏さを見せる。若干、調性的響きのある音響素材を提示しつつ手の込んだプロセスで解体していくなどして、歴史への意識、時代への意識など、ある種の思想性や現代的抒情性をデモストレートするといった特徴をバランスよく持った作品が、このコンクールでも有利なようです。
一位の西澤氏、三位の中川氏の作品はこうした完成度を典型的に備えた作品でした。ちなみに、この2人は非常に若く、国立音大の出身者です。
特別賞の長谷川氏の作品は、ジョン・アダムス、ライヒの近年の音楽など、もろに特定のアメリカの現代の作曲家の影響が聴かれ、そこに吉松隆の音楽、アメリカのいわゆるノンジャンルの音楽として10年前ほどに流行ったウィンダムヒル系の音楽を連想させる要素も聴き取れるものですが、これほど影響の出所を隠すことなく見せながらも非常に完成度高く構成された作品に思えました。ベースにはかなり都会的通俗的性格のある音楽で、プロフェッショナルなミュージシャンの音楽と聴きました。
奨励賞の朔氏は、響きへの感性が非常に鋭く、フィンランドのサーリアホの音楽を演奏させるような新鮮な響きの空間をつくる人だと思いました。今回登場した若い作曲家の中では、私はこの人が最も今後期待できるように思います。
入選の兵井秀和氏、平野達也氏は、2人とも根にはヒンデミット的端正な新古典的音楽性のある人だとおもいますが、1999年という時点での現代音楽らしい様式と自身の新古典的個性をどうおりあいをつけるのか模索中といったような音楽でした。大橋千賀子氏の音楽は、プロコフィエフなどロシア音楽への個人的礼賛といったレベルを越えていないような気がしました。中島伸行氏の音楽は、何を言わんとしているのか私にはよくわかりませんでした。