「演奏者の自己表現の手段」、「作曲家の意図の忠実な再現への奉仕者」。
作曲家と演奏家の分業というものが出てきて以来、演奏家の自己表現と、作曲家の自己表現とが一つの音楽の中にどうして共存し得るのかという不思議が生まれました。
今、鳴っている音楽が伝えるものは、作曲家のものか、演奏家のものか。
楽譜に書かれた他人の作品を楽譜に準拠して鳴らすというクラシックの演奏家にとって自己表現がどのように存在し得るのか、作曲と演奏の分業の境界線から考えてみます。
作曲家にとって演奏家というものは、私の場合は、脚本家と役者のようなものかと思っています。
作曲家には単純化すると2つのタイプがあって、5線譜に書くレベルの音の組み合わせまでで作曲を考えていて、実際にどんな音で演奏するかは演奏家に任せるというタイプと、まったく音の響きそのものが頭の中ではっきり出来あがっていて、演奏家にはそれを忠実に再現することを要求するタイプの作曲家です。
このどちらのタイプかによって、作曲と演奏の分担の範囲が違ってきます。
前者のタイプは鷹揚で、脚本がいろいろな解釈でいろんな演出で、いろいろな役者が演じるのを認めるように、最終的な音楽としての音を固定化して考えていません。
後者のタイプは、楽譜に強弱からペダルから詳細に指示してそれを厳格に守ることを要求したり、極端な場合には全て自演したり、シンセサイザーで全て演奏・録音までやってしまいます。
自分の音楽の響き方、仕上がりまでを完全に固定化してディテイルをイメージしている作曲家は、極端に言えば、自分の音楽に他者の表現を認めず演奏家を道具と思っていると言えるでしょうか。
一方、例えば、バロック時代の作曲家は、楽器やテンポも固定化せず通奏低音なども演奏者の裁量まかせの部分が多く、前者の考え方だったと思います。
作曲と演奏の境界をどこに置くのかは作曲家によって違うのです。
音楽として鳴っている音は演奏家の音であり、声ですが、全体の構成と筋書きは作曲家かプランしたもの。観客の目に見える演技をするのは役者です。
2000年12月16日記
近藤浩平