「非常に音楽素材の種類、形式を絞りこんで完成度を追求する特異な様式の古典派音楽を、初期教育のメインの教材にするということは、音楽的ヴォキャブラリーを豊かにするという面では、明らかにマイナス面がある」とのBBSへの1999年10月の私の書き込みに、ご意見を頂いただいたところかひろがった西洋の古典との関わりと音楽教育、音楽の理解についての会話。
この書き込みは、初期教育はまず西洋の古典で音楽性の基礎を固め、基本がかたまってから初めて他の音楽、現代作品などに触れるべきだというニュアンスの発言に対してのレスです。私は、子供のうちから、西洋の古典以外の雑多な音楽、上品なものもそうでないもの西洋の調性のものも民族的なものも、調性のないものも含め、音楽的雑菌の中で育つことを薦め、西洋古典以外から切り離された純粋培養状態に初期教育を置く事は望ましくないという文脈で、この発言をおこなっています。
西洋の古典というものを、音楽の教育や受容の中で、どう位置付けられるのかという問題を軸に広範な議論になりましたので、多くの発言、議論があった中での、私の発言を編集・再録してみます。
音楽教育は、将来の音楽家の価値観、音楽の方向性、音楽活動の在り方、音楽を聴き愛好する人の音楽観や聴取の傾向、趣味など、大きく音楽の流れの方向を決定ずけていくものだけに、どのような音楽観によって音楽教育がなされるのかということは、将来の音楽の世界に決定的な影響をもたらす重要な事柄です。
音楽教育によって、今後生まれてくる音楽が変わり、今後受け入れられる音楽も変わってくるのですから、全ての音楽に関わる人にとって大きな影響をもたらすものです。
教育を受けている生徒、学生や、教える立場にいる人だけの問題ではありません。
なお、このやり取りは1999年10月Yahoo掲示板上での書き込みから私の発言部分を抜粋・整理再録したものです。
とくに、議論について真剣で広範なレス、問題提起をいただいた、ハンドルネームhuhutkyさんには、大変感謝しております。私はhuhutkyさんについてハンドルネームしか存じ上げませんが、非常に現代的で先鋭的な同時代音楽までを含み古典から近現代の音楽までをレパートリーとし、深く自分のものとされているピアニストの方のようです。
まず、私の発言の趣旨をまとめたものを載せ、そのあとBBSでのやりとりでの発言の一部を再録したものを載せています。
古き物の全き理解というhuhutkyさんの提起
huhutkyさんの
>文学が単に言葉の使い方を教える物ではないように,音楽が表現する物は,音楽的「vocabrary」,特殊な「様式」ばかりではないと思います。………逆に古い物の全き理解からしかこないようにも思います。歴史をしらずに未来を語るようなものですね。<
というご意見は、全く正論ですし私も全く同意いたします。私の発言への反論の内容とは受け取りません。
ただ、私が、ここでこのような発言をした文脈と意図について、少し整理させてください。
まず、ここで私が言う場合の古典派音楽以外の音楽とは、西洋クラシック音楽以外の音楽的伝統をも視野に収めて考えています。また、非常に高いレベルでのそれこそ一生かかってもたどりつけない「完璧な古典の理解」という要求水準に対しての、「人生は有限だ」という一人の音楽家の現状認識を出発点としていることを了解ください。
西洋のクラシック以外にも様々な伝統と歴史がある
まず、世界には様々な音楽的伝統と歴史があり、西洋の近世、近代にあらわれた「クラシック音楽」というものは、そのうちの一つであるということを前提として考えたいと思います。ヨーロッパという特定の地域で発達した音楽文化であり、世界には、クラシック音楽以外の音楽文化、伝統があります。
西洋クラシック音楽以外の例えば、様々な民族音楽、ラテン音楽、アジア、アフリカ、オセアニアなどの音楽など広く考えれば明らかなことですが、音楽の様式、それこそ音楽に使われる楽音という構成要素、音楽的ヴォキャブラリーのレベルから、本質的内容、音楽そのものの役割から根本的な違いをもった様々な音楽文化があります。
クラシック音楽の音楽家としては古典派音楽がメインの基礎であるのは、当然なのですが、自由な立場で創造的に音楽に関わっていく上では、様々な音楽的伝統のうち、クラシック音楽の歴史しか認識しないということは好ましくないというのが私の前提です。
世界の様々な音楽文化、伝統ごとにヴォキャブラリーが
音楽の深い理解に至る前提の、音楽の聴取、認知の段階で、音楽的ヴォキャブラリーというものは、決定的役割をもちます。私がここで「音楽的ヴォキャブラリー」という言いまわしを、クラシック音楽の中の様々な表現テクニックを数多くもっているということとは、別のレベルのもっと、音楽認知のレベルに遡って考えています。
まず、音楽を聴くとき私達は、耳に入った音波のうち、音楽の構成要素である「楽音」をピックアップします、そこから音楽的理解、表現へと進んでいくのですが、ここに非常に大きな音楽言語の問題があります。
どのような音を「楽音」=音楽の音として認知するのか、個々の音をどう関係付けて把握するのかといったものは、後天的に育った音楽文化、音楽言語の中で形成されるのです。
非西洋の音楽、西洋音楽とは、音階もリズムも時間感覚も異なる音楽を想像してみてください。例えば、アラブやインド音楽の微妙な音律や、アフリカの様々な音楽は、西洋音楽とは音楽的言語も、楽音も音階も時間把握そのものも異なったものがあるのです。
現地の人達には、自然で意味をもった高い文化の音楽が、西洋音楽のヴォキャブラリーしか理解できない耳には、、ときに意味不明のプリミティブな音楽に誤解されたりしてきました。また、音楽的でない音として生理的拒否を生じてしまうことさえあります。
音を、音楽を形作っているヴォキャブラリーとして認知できること。これは、「音楽が表現するもの」が届くための前提条件となります。たとえ、ある特定の音楽文化の中で真の音楽家としての成熟をしていても、他の音楽言語、音楽様式に基づいた音楽を理解する為には、この音楽言語という知覚、認知レベルの壁を越えなければなりません。
クラシックの古典派音楽は、音楽史上特定の特殊な様式
私は、音楽学や作曲を学ぶ上で、世界の様々な音楽の中でクラシック音楽はどういう位置、、にあるのか、どのような特徴をもった音楽文化なのか、どのような音楽言語を特徴としているのか、大きな歴史の流れの中で、広い視野から考えるよう努めてきましたが、そこであらためて認識することは、クラシック音楽の音楽というものは、世界の音楽の中でむしろ非常に特殊な様式と音楽言語、音楽文化をもったものだということです。
音楽的ヴォキャブラリーそのものも、非常に特徴的なものです。
長調、短調の調性組織が完成してきたのが17世紀、限定された和音による機能和声に音楽素材を集中して非常に成熟度の高い音楽をつくりあげた18世紀、20世紀には、調性そのものがクラシック音楽の中では弱まり、外から非西洋音楽が様々に影響をあたえる一方、おもしろいことに、クラシック音楽以外の音楽文化に、西洋音楽の機能和声などの語法が借用され吸収されていく。こういった歴史的パースケクティブに立ってみると、若年期の主要な音楽体験が17−19世紀ヨーロッパの音楽に限定されるという状況は極めて偏ったものだと言わざるをえません。
長調、短調の機能和声の音楽、3度構成の和音を基本とした和声、3拍子、4拍子など単純化された拍節、1本の主旋律が主導的位置を占める声部バランス、「交響曲」「ソナタ」など特別に常用される形式。全くもって世界の音楽の中で、特殊な様式と音楽言語です。
これをベースにした音楽様式(西洋のポピュラー音楽など)が、西洋の植民地支配、資本主義支配、政治経済的優位に支えられて世界に流通しているのが現状です。
古典派純粋培養と寛容な耳と
とくに私が問題にしているのは、古典派音楽の音楽的内容の問題ではなく、素材として容認している音の種類が絞りこまれているという点です。
古典派音楽で純粋培養されると、機能和声に従わない進行や、長調、短調以外の音、非西洋の音律や音の重なり方、様々な非西洋的リズムといった古典派音楽にあらわれない音楽素材=音楽的ヴォキャブラリーを、「音楽の音」として認知できなくなってしまう危険が高いのです。これは、音楽的な精神や価値とかいったところでの理解に至る前の、「音楽を表現するもの」が伝わる障壁となってしまうのです。
これは文学の価値を理解するには、その言語が理解できることが前提となっていることと同じです。しかも音楽はヒアリングです。英語のLとRや中国語の抑揚、ウムラウトなど日本語で区別のない音を判別して聞き取るために若い時からのヒアリングが望まれるのと同じ理由で、できるだけ早い時期に様々な音楽言語に触れ、ヨーロッパのクラシック音楽以外の音楽を受け入れられる寛容な耳を獲得しておくことは、最初にしておくべきことです。音楽によって自分が何を伝えたいのかという価値の発見は、もっと成熟し、年齢を加えて、様々な文化に接してから、真剣にとりくんでいっても遅くはないのではないでしょうか。まずは、多様な言語と選択肢を知ってから、自分の進路を自分で決めるべきで、選択肢の乏しい単一な文化の中で育つことは決して健全ではありません。
「全ては、バッハ、モーツアルト、ベートヴェンから」というわけではない
西洋音楽が世界中に普及したため、ともすると、私たちは忘れてしまうのですが、西洋音楽の様式は一つの音楽言語であって、それさえ知っていればどこでも通用する世界共通語ではないのです。音楽が表現しているものも様々です。
バッハやモーツアルト、ベートヴェンなど古典がメインの基礎であるべきだということは、バルトークやシェーンベルク、プロコフィエフ、ブーレーズ、クセナキスまで、ヨーロッパの主流の現代音楽までの「西洋クラシック音楽」を領域として考えるなら、全く正しいことです。
しかし、西洋クラシック音楽以外の文化、伝統を背景とした素晴らしい音楽が世界には無数にあり、クラシック音楽の場に登場してくる新しい作品も、クラシック音楽の外の文化や伝統を背景としたものが、次々登場しはじめました。これらの音楽を理解し、その「表現するもの」を伝えるには「クラシック音楽家としての音楽性」だけではカバーできないと考えます。
現代の作曲者の立場から
私は、作曲をします。わずかながら作品の演奏機会もあります。
私は作曲する上で、様々な音楽に学びます。作品の中には、様々な音楽表現が入ってきます。バッハやハイドンに学んだ表現もあれば、バロックやルネサンス音楽に由来するものもあれば、ピアノ曲なら当然19世紀のピアノ音楽に影響された語法もあります。一方、ヨーロッパ音楽以外の音楽に学んだ表現も多々あります。
ガムランのためにペロッグ音階で書いたもの、特殊な調弦で琴のために書いたものもあれば、ラテン音楽に由来するリズムもあり、アフリカやアラブの音楽の中に見出した美に、深く影響された部分もあります。
なにより表現しようとしている物、私の「人生にとって一番中心にあるもの」は、モーツアルトやベートーヴェンとは、また違ったものです。 もし、同じならあらためて作曲など自分が苦労してやる必要などありません。
ですから、西洋音楽だけをいくら徹底的に学んでも、私の音楽の完全には解釈はできません。モーツアルトの音楽の中には見出せない、出所の違う音楽的内容が、私のような駆けだしの作曲家の作品にさえあるのです。クラシック音楽以外にも視野を広げている音楽の理解には、クラシック音楽と主流の現代音楽の経験では不足なのです。
たとえば、ラテン・アメリカ音楽の演奏
ウインナ・ワルツやショパンのポロネーズを弾くとき、楽譜に書ききれないリズムの綾というか、機械的に音価をなぞってもつかめない、ニュアンスがあります。
これらは、演奏の伝統として伝えられていきます。
20世紀のラテン・アメリカの大作曲家、ヴィラ=ロボスやレブエルタスやヒナステラの音楽は、中南米の様々な音楽文化を背景としたものです、西洋のクラシック音楽の伝統と、クラシック音楽以外の音楽伝統の言わば混血の音楽です。
ラテン系のリズムやショーロスのニュアンスは、ラテン音楽の体験が無ければ、なかなかつかめるものではありません。しかも、このラテン音楽の伝統は、ヨーロッパのクラシック音楽の中ばかりの中で音楽生活を送ってきた演奏家が付け焼刃で習得できるような浅いものではないのです。バッハやモーツアルトを学ぶのと変わらない奥行きのある伝統なのです。こうした理由で、私は、初期の音楽教育の段階で、充分、西洋クラシック音楽以外の音楽文化に接しておくべきで、しかもそれは、古典派音楽を中心にしてその周辺も少し知っておくというレベルでは不充分だと考えています。
ヒエラルキー、ヴォキャブラリー
西洋のクラシック音楽の中では、バッハ、モーツアルト、ベートーヴェンといった音楽を古典、その後の全ての音楽の基礎としてとらえる価値観のヒエラルキーがあります。
これは、現代音楽まで含めてクラシック音楽の世界では、全く妥当な正論です。
しかし、例えば、あなたがクラシックの優れた音楽家であっても、アフリカで現地の音楽を学び、インドでインド音楽を学び、アラブで微分音も含んだ音律の音楽を学ぶとすれば、
プライドを捨て、西洋音楽のヴォキャブラリーにない音を、音楽言語として習得し、はじめてその音楽が理解できるようになるのです。西洋音楽に無い「音楽的ヴォキャブラリー」を音楽の音として正しく把握できるようになることは、これらの音楽の「表現するもの」を理解する為、避けられないことなのです。
「様式」「素材」と「表現内容」は不可分です
作曲する上で、どのような音を使うか、どんな和音、どんな音階、どんなリズム、どんな形式を用いるのかということは、「内容」と切り離すことはできません。
言葉の語彙の一つ一つが歴史と由来と様々な連想などを伴っているように、音楽の「ヴォキャブラリー」もそれぞれ歴史を背負っています。形式といった一見大枠の容器に見える部分でさえ、世界観や時間感覚、音楽観といった価値観を背負っています。
交響曲やソナタは18−19世紀のヨーロッパの精神文化、世界観と合理精神を映し出しています。この形式を使えば、そういった価値観の影響は避けられません。
どのような音楽的素材を使うかも、作曲者の価値判断の結果です。表現内容と切り離すことは不可能です。
だからこそ、スターリンが「ジダーノフ批判」でショスタコヴィッチやプロコフィエフに、現代的ヴォキャブラリーと様式を、禁止した時、それは彼らの表現内容そのものに関わる深刻な内容になったのです。ある「音楽の内容」を、別の音楽様式という「容器」に盛り込むことは不可能です。言われるとうり、真の音楽家が表現の必然的結果として生み出したものが「様式」であり、「音楽語法」であり、「音楽的ヴォキャブラリー」なのです。
作曲家の勝手な理想
いろいろ書いたが、クラシック音楽の優れた演奏を目標とするのなら、古典を基礎とするのは全く当然です。このようなことを書いている私の作品でも、古典派音楽の伝統から引き継いだものが本質的な部分にあります。
バッハも、モーツアルトもベートーヴェンもシューマンもドビュッシーもブーレーズも弾ける一方、ジャズやラテン音楽や、ガムランや日本やアジアやアフリカ、オセアニアの様々な音楽にも理解があって、それこそ、作品にルンバやラグタイムのリズムを使っても、アフリカのポリリズムのような表現を使っても、体で憶えた素晴らしいリズムのニュアンスで演奏してもらえる演奏者。小さいときから、古典も弾くけどお琴もボサノバもジャズもやってたのなんていう演奏者。………作曲家の勝手な理想ですみません。
BBSでの発言の再録
やりとりの相手の発言を再録していないので、わかりずらいところがあるかも知れませんが、上記のまとめに含まれていない内容やニュアンスがある部分もありますので、発言内容をそのまま、ほぼ時系列で採録しました。
huhutkyさん<ご意見ありがとうございます
音楽的ボキャブラリーの件、ちょっと問題点を整理させてください。
「非常に音楽素材の種類、形式を絞り込んで完成度を追求する特異な様式の古典派音楽を、初期教育のメインの教材にするということは、音楽的ヴォキャブラリーを豊かにするという面では、明らかにマイナス面がある」という私の意見にご意見を頂戴しました。
huhutkyさんの>文字が単に言葉の使い方を教えるものではないように、音楽が表現するものは、音楽的「ヴォキャブラリー」、特殊な「様式」ばかりではないと思います。・・・・・逆に、古い物の全き理解からしかこないようにも思います。歴史を知らずに未来を語るようなものですね<
というご意見は、全く正論ですし、私も全く同意します。
これは私の発言内容への「反論」ではないですね。ただ、私も歴史認識からこのような発言をしたものでそのあたりを少し整理してご説明する機会を与えください。
つづき 西洋のクラシック以外にも様々な歴史と伝統
まず、世界には様々な音楽的伝統と歴史があり、西洋の近世、近代にあらわれた「クラシック音楽」というものは、そのうちの一つであるということを前提に考えたいと思います。
西洋のクラシック以外の音楽、例えば民族音楽、ラテン音楽、アジア、アフリカ、オセアニアなどの音楽を考えれば明らかなことですが、音楽の様式、それこそ音楽につかわれる楽音という要素、音楽的ヴォキャブラリーのレベルから、本質的内容、音楽そのものの役割から根本的な違いをもった様々な音楽文化があります。クラシック音楽の音楽家としての立場なら、古典派音楽がメインの基礎であるのは当然なのですが、自由な立場で創造的に音楽に関わっていく上では、様々な音楽的伝統のうち、クラシック音楽の歴史しかしらないというのは出発点として好ましくないというのが私の意図です。
huhutkyさん<つづき 音楽的ヴォキャブラリーの問題
ここで、私が、ここでこのような発言をした文脈と意図について、少し整理させてください。これは、反論ではなくて、そこから発展的に考えたもろもろのことを、次々書いてみたものだとご理解ください。
まず、ここで私が言う古典派音楽以外の音楽とは、西洋クラシック音楽の音楽的伝統をも視野に収めて考えています。クラシックの近現代音楽とイコールではありません。
また、非常に高いレベルでの、それこそ一生かかってもたどりつかない「完璧な古典の理解」という要求水準に対しての、「人生は有限だ」という現実的認識を出発点としていることをご理解ください。
つづき 文化、伝統ごとにそれぞれヴォキャブラリーがある
音楽の深い理解に至る前提の、音楽の聴取、認知の段階で、音楽的ヴォキャブラリーというものは決定的役割をもちます。私はここで、「ヴォキャブラリー」という言いまわしを、クラシック音楽の中の様々な表現テクニックを数多くもっているというようなこととは、別のレベルの、もっと、音楽の認知レベルに遡って考えています。
まず、音楽を聴くとき私達は、耳に入った音波のうち、音楽の構成要素である「楽音」をピックアップします、そこから音楽的理解、表現へと進んでいくのですが、ここに音楽言語の大きな問題があります。
どのような音を「楽音」として認知するのか、音同士をどう関係づけて把握するのかといったものは、後天的に、育った音楽文化、音楽言語の中で形成されるのです。
つづき 非西洋音楽の理解に学ぶ
非西洋の音楽、西洋音楽とは音階もリズムも時間感覚も異なる音楽を想定してみてください。アラブやインド音楽の微妙な音律や、アフリカの様々な音楽は、西洋音楽にはない、音楽的ヴォキャブラリーを数多く含んでいます。
現地の人々には、自然で深い意味を持った音楽表現が、西洋音楽のヴォキャブラリーしか理解できない耳には、ときに意味不明の奇妙なプリミティブな音楽としか聴こえないこともあります。また、音楽的でない音として生理的拒否を生じてしまうことさえあります。
音を、音楽を形作るヴォキャブラリーとして認知できること。これは、「音楽が表現するもの」が届くための前提条件となります。他の音楽言語、音楽様式にもとづいた音楽を理解するためには、この、音楽言語という知覚、認知レベルの壁を、まず越えなければなりません。
つづき 非西洋音楽に学ぶその2
例えば、あなたが、クラシック音楽の優れた音楽家であっても、アフリカで現地の音楽を学び、インドでインド音楽を学び、ペルシャで微分音も含んだ音律の音楽を学ぶとすれば、プライドを捨て、西洋音楽のヴォキャブラリーにない音を音楽言語として習得し、耳が開いてから、はじめてその音楽が理解できるようになるのです。西洋音楽に無い「音楽的ヴォキャブラリー」を音楽の音として正しく認知できるようになることは、これらの音楽の「表現するもの」を理解する為、避けられないことなのです。
つづき 古典派音楽は音楽史上、特定の特殊な様式
私は、音楽学や作曲を学ぶ上で、クラシック音楽が世界の音楽の歴史の中でどういう位置にあるのか、どのような特徴をもった音楽文化なのか、どのような音楽言語を特徴としているのか、出来る限り広い視野から考えるよう努めてきましたが、そこであらためて認識することは、クラシック音楽は、世界の音楽の中で、むしろ非常に特殊な様式と音楽言語、音楽文化をもったものだということです。音楽的ヴォキャブラリーそのものも、非常に特徴的です。
長調、短調の調性と機能和声が完成したのが17世紀、限定された和音による機能和声に音楽素材を集中して非常に成熟度の高い音楽をつくりあげた18世紀、20世紀にはクラシック音楽の中では調性が弱まり、非西洋音楽が影響を与える一方、ポピュラー音楽によって調性が世界中に流通してしまう。
つづき 古典派音楽の特殊性
こういった歴史的パースペクティブに立ってみると、若年期の主要な音楽体験が、17−19世紀のヨーロッパ音楽によって中心を占められてしまうという状況は偏ったものと言わざるを得ません。
長調短調の機能和声、3度構成の和音、3拍子、4拍子系の単純化された拍節、1本の主旋律が主導的になる声部バランス、「ソナタ」などの定型化した形式モデル。全くもって、世界の音楽の中で、特殊な様式と音楽言語です。
ここで、私が問題にしているのは、古典派音楽の内容の問題ではなく、素材として容認している音の種類が絞り込まれているという点です。
つづき 寛容な耳のために
古典派音楽で純粋培養されると、機能和声に従わない進行や、長調、短調以外の音、非西洋の音律や音の重なり方、非西洋音楽的リズムといった、古典派音楽で使われない音楽素材=音楽的ヴォキャブラリーを「音楽の音」として認知できなくなってしまう危険が高いと考えられます。
もちろん、他の特定の音楽で純粋培養されても同じことです。
これは、「音楽の表現するもの」が伝わる障壁になってしまうのです。
文学の価値を理解するには、その言語が理解できることが前提になっていることと同じです。しかも音楽はヒアリングです。英語のLとRや中国語の抑揚、ドイツ語のウムラウトなど日本語で区別の無い音を判別して聞き取るために、若い時からのヒアリングの訓練が望まれるのと同様の理由で、出来るだけ早い時期に様々な音楽言語に触れ、ヨーロッパのクラシック音楽以外の音楽を受け入れられる寛容な耳を獲得しておくことこそ、最初にしておくべきことです。
つづき 自立した選択の為に
音楽によって何を自分が伝えたいのかという価値の発見は、もっと成熟し、年齢を加えて、様々な文化に接してから、真剣に取り組んでいっても遅くはないのではないでしょうか。まずは、多様な音楽を受け入れる耳と、選択肢を知ってから、自分の進路を決めるべきで、選択肢の乏しい単一な文化の中で育つことは決して健全ではありません。」
もちろん、古典派音楽は、歴史上最も素晴らしい音楽の一つですし、幸い、音がシンプルで非常に無駄のない音楽なので、ごまかしが利かず、音楽を学び始めるにあたって最も良い音楽であることは確かですし、現代に至るまでの、クラシック音楽の全ての基礎、その最良の本質を示してくれる音楽ですし、調性音楽の基本ですから、クラシックを学ぶメインであることに異論はありません
つづき 全てはバッハと古典派からというわけではない
西洋音楽が世界中に普及したため、ともするとわたしたちは忘れてしまいがちになるのですが、西洋音楽の様式は一つの特定の音楽言語であって、それさえ知っていればどこでも通用する世界共通語ではないのです。
音楽が表現しているものも様々です。
バッハ、モーツアルト、ベートーヴェンなど古典がメインの基礎だということは、バルトークやシェーンベルク、プロコフィエフからブーレーズ、クセナキスなどヨーロッパ主流の現代音楽までの「西洋クラシック音楽」を領域として考えるなら、全く正しいことです。しかし、西洋クラシック音楽以外の伝統、文化をも背景とした素晴らしい音楽が世界には無数にあり、登場してくる新しい音楽作品にも、クラシック音楽の外の文化や伝統を背景にしたものが現れてきました。これらの音楽を理解し、その「表現するもの」を伝えるには「クラシック音楽家としての音楽性」だけではカバーできないと考えます。
蛇足 ながながと申し訳無いです ヒエラルキーの崩壊
ちなみに、音楽学の世界では、ヨーロッパのクラシック音楽を、全ての世界の様々な音楽の中で、最も高度な発達した質の高い音楽として、頂点に置き、その他の「民俗音楽」をよりプリミティブなものとして考える、かってのヨーロッパで一般的だった価値観は、すでに過去のものとなっています。(なっているはず?)
これを、ヨーロッパのクラシックを頂点とする価値観のヒエラルキーと、私は言っているのですが、これはもはや崩壊しつつあるのです。
ただし、クラシック音楽の内部で「バッハや古典派がその後の音楽の基礎であり源点だ」ということが言わることはしごく真っ当なことです。
ベートーヴェンもワーグナーも知らない、例えばアフリカの音楽家がいたとして、伝統が無い根無し草とは決して言えないのです。もし、彼がオーケストラ曲を書く技術を習得したら? これが作曲のこれからの動向です。
ヨーロッパの現代音楽や、日本の現代音楽が、世界の民族音楽の語法を借用したり、もっともらしく、グローバルな音楽観を語るわりに、実際の音楽が浅いと感じられるというのは私もよく感じるところです。
音楽の語法とかスタイルというものは、文化の中での文脈を離れて単純に安直に移植したりすることが出来るものではありません。
クラシックの現代音楽の多くの作曲家の、非西洋音楽を意識した作品の質が期待を満たさないのは、その音楽が、その作曲家の本当に内面で消化した身と肉となっていないからでしょう。
つづき、また長くてすみません
非西洋の音楽というものは、クラシック音楽の中で20年30年と暮らした人が、いきなり付け焼き刃で身につけようとするには、あまりに奥が深いものです。だからこそ、若いときから接しておきたいということが、私の言おうとした意図です。また音楽言語の障壁というのは、非西洋の音楽など未知な音楽を聴くときに、決して簡単に乗り越えるものができるものではないな。というのが民族音楽などに触れて私が実感するところです。
私の音楽学の師も言ってましたが、イランへ滞在して1年くらいしてから、最初、単調でどれも同じにしか聞こえなかったものが、やっとさまざまに変化しているものとして聴き取られるようになったとのことです。
ところで、私はヨーロッパ音楽を、自分の原点にしている音楽家が、クラシック音楽以外の世界のごたまぜの音楽=深いところで自分の音楽になっていない音楽を借りてきても、本当の自己表現にならないということは、まさにおっしゃる通りです。世界中どこの民族音楽を見ても、ほとんどの人は、自分の音楽、自分の音楽スタイルの音楽をもっぱらやっています。クラシックの音楽家もそうであっても、なんらかまいません。
つづき
それぞれ、自分の音楽、自分の育ってきた環境から受け取った音楽をやっていくのは、深く自分のものとなった音楽表現のために必須だしベストであると、私も考えます。
クラシック音楽の演奏者が、クラシック音楽の原点に常に立ち戻りながら自分の音楽を表現すること、これがもっともその音楽家の表現として本質的なところへ至る道だと思います。
普遍的であるための新しい役割かもしれない
ところが、クラシック音楽の楽器や音階やさまざまな演奏形態が、世界的に浸透し、多くの人が自分の音楽
の表現手段となりうるという音楽になってきたとき (おっしゃる通り、もう日本人も西洋音楽以前の音楽そのままが自分の音楽というわけではないですね)、ちょと他の分野の音楽家にはない特別な任務のようなものが生まれてきたと思うのです。 たとえば、中南米のヴィラ=ロボスやレブエルタスの音楽、タン・ドウン、あるいは、ハムザ・エル・ディンのような借り物ではない別の深い文化的背景をもったレパートリーが入ってきて、
それらを演奏することを、クラシックの演奏家は、新たな役割として引き受けることを期待されるようになったのです。この役割を引き受けるかどうかは、音楽家それぞれの生き方に任せられることですが、もし、この役割を引き受けようとするのなら、西洋クラシック音楽以外の音楽体験は不可欠だと思うのです。
その上で、自立した音楽家としての立場、原点を見失わないようしっかりもちながら音楽を生きていくためには確かに、難しいバランスをとりながら、常に考えながら進んでいくことが必要ですね.
クラシック音楽以前の選択肢も
あとちょと、考えたこと。
クラシック音楽以外にジャズもラテンも、いろいろ身近な音楽があって、クラシック音楽の音楽家になるという以外に、別の方向にすすむという選択肢が残ってますね。
どの方向へ進むか、クラシック音楽に進むのか、そうしないかという選択肢を知っておくという段階で、他の音楽を知っていて、自分で選び、決める自由があります。
クラシック音楽の演奏者になるんだと決めたところから、クラシックの古典はその人にとっての「古典」になるのですが、自分の「古典」を、クラシック音楽以外に見出す人もいるのだということを、あらためて確認しておこうというのが、私の考慮した事柄です。
かなり強調したので文章の表現はバランスに欠けた点もあったかと思います。
現状認識
私の認識とhuhutkyさんの認識、それで実際どういうことをしていくのかという結果としては、実際、大きな隔たりはないのかもしれないなと思います。
私の音楽性のベースにもヨーロッパのクラシック音楽が大きく場所を占めているし、クラシック音楽が半分以上を占める音楽生活をしています。ただ、私は、この音楽が、世界のさまざまな音楽の中の特定の伝統、自分が、世界に様々な音楽がある中で、このクラシック音楽を拠り所にしている一つ立場なのだということを、もっと謙虚に知っておくべきじゃないかということを、強調しておきたかったのです。
つづき クラシック音楽の普遍性
クラシック音楽の普遍性という点ですが、私は、現状では、これを当然のものとして受れ入れ過ぎではないかと思います。世界の人口の中で、モーツアルトやバッハの音楽を聴いて生活している人が何%あるとおもわれますか?イランやアフリカに行ったらほとんど耳にしないのです。
でも、クラシック音楽の音楽家として自分の立場と表現内容があるのだからその位置、自分の領域で誠実に音楽をやれば良いというのも、一つの正しい生き方、とくにクラシックの演奏家としての立場としての音楽の成熟を考えると、まったく真実ですね。
ただ、作曲という立場からいえば、西洋クラシック音楽と共通の音楽美や価値や伝える内容も、クラシック音楽以外の伝統や価値観や美意識を背景にした内容も含んでいる音楽をつくっているわけです。そういう面で私の場合は、完全にクラシック音楽に属した作曲家ではないのです。ですから、ヨーロッパの古典をいくら徹底的に知っていても、私の音楽には掴みきれない部分があるし、クラシック音楽以外の音楽体験を前提とした部分があります。実際、古典だけを勉強しているピアニストの多くが「弾けない」のは、現実の問題です。
作曲家と西洋古典との関係
ここまでのお互いのコメントを、読み返してみて、「クラシック以外の音楽」とか「非西洋音楽」とか、異なった「音楽的ヴォキャブラリー」といったものに関して、言葉の意味の大変重要な点を明確に整理しないまま、話してきてしまったことに気付きました。同じ言葉を使いながら想定しているものが違っている面がありました。作曲家とそれらとの関係で2つのケースがあります。
1.西洋クラシック音楽を自分の音楽性のコアに持っている作曲家が、異文化の音楽、他者の音楽としての「非・西洋クラシック音楽」を取り込む場合。
2.「非・西洋クラシック音楽」を、自分のネイテュブの音楽文化、音楽言語としてもっている作曲家、例えば東洋出身の作曲家が、その音楽文化を、クラシック(現代音楽)の作品に持ちこんでくる場合。
ネイティブの音楽
ヴォーン・ウィリアムスの「民族音楽論」、雄山閣刊たぶん現行版あると思います。なんと原題は「National
Music]なんですよ!
彼は、ドイツ・オーストリアのクラシック音楽の様式が至上の洗練されたスタイルで、イギリスなど周辺諸国の民俗音楽さえ芸術音楽より未開で野卑なものと考えられていた時代に、作曲家は、もっと自分のネイティブのヴォキャブラリー、彼の場合はイギリスの民族音楽に根ざした音楽を書くべきだと主張しています。そこでつけ加えて、ドイツやオーストリアのクラシック音楽は、ドイツやオーストリアの民俗音楽の音楽性を発展させたものだと言っています。
ここで「民族音楽」とは、他者の音楽、異文化の音楽ではなくて、クラシック音楽以外の、もう一つの自分のネイティブの音楽文化なのですね。
huhutkyさん<おっしゃることはもっともです
前項の1の場合を中心に想定した場合、huhutkyさんがおっしゃってきたことは、まさにその通りというように思えます。ドビュッシー、メシアン、ブーレーズ、さらに高橋悠治のような日本の現代音楽の作曲家、バルトークもコアの部分が非常に西洋近代的でドイツ・オーストリア音楽の古典ですからむしろ、こちらの面が強いかもしれません。
(注:現代音楽の伝統も中心となっている基礎は西洋の古典派音楽だというような発言があった)
前項の2の場合、ヴィラ=ロボス、ヒナステラ、レブエルタス、イサン・ユン、武満、清瀬保二ほか、アフロ系のウィリアム・グラント・スティル、タン・デュン、欧米人作曲家でも特別な思想的背景のあるアイヴス、時間感覚や音楽の形態への感覚に非クラシック的な面のあるヤナーチェク、アフリカ音楽の素地のあるライヒや、太平洋的文化意識の強いルー・ハリソンなど
huhutkyさん<もう少しつづき
この前項の2のケース。「非・西洋クラシック音楽」の音楽文化を自己の深いネイティブの音楽文化、背景としてもっている(もちろん大抵はクラシック音楽のベースも併せ持っている)作曲家達が、どんどん現れてくる。とくに、これからは、アジア、アフリカなどの出身の作曲家も増えてきて、「クラシック音楽」が彼らの音楽を受け入れるとすれば、異文化や異なった音楽言語の理解という大変な課題は避けて通れないだろう。というのが私がとくに強調した点です。
(もちろん一人が全部は無理だから、一人一人は自分の得意な部分に絞ってもかまわない)
「作曲」という西洋音楽的行為
クラシック音楽を、世界の様々な音楽より特別上位に置き、他の音楽を未開の音楽とか未発達の音楽として見下すクルト・ザックスでさえ陥った西洋人らしい傲慢な西洋至上主義に対して、とても抵抗を感じ、西洋の平均律や調性があまりに支配的に他の音楽文化を衰弱させることに危惧を感じながらも、なぜ、西洋音楽的な「作曲」という手段を選ぶのか。これは「楽譜」という記号のおかげで「音楽」が「作品」という形である程度、移動伝達保存可能なものになっているという特殊性。西洋近代的人間観である「個人」と「個人の自己表現」というものを私が受け入れているということ。この面は特別かもしれない。(民族音楽の多くは共同体の文化の表現としての性格が強く、個人の表現の器にはなりにくい面がある。)
自然に書くことと新しさと
ドイツ・オーストリアやフランスなどの現代作曲家は、大変苦しそうに作曲しますね。時々ドナウエッシェンゲン音楽祭などにあらわれる、珍妙な東洋趣味を引っさげた前衛作品は、音楽としての寿命は短そうですね。きっと、彼らの場合、ネイティブの音楽言語で素直に語ると19世紀までのクラシック音楽に近づいてしまうから、必死でさけている、何か無理して前衛的に書いているという印象を受けます。日本の現代音楽の作曲コンクールにも共通して感じられることです。 かえって、ヘンツェのような開き直った作曲家の音楽作品の方が魅力的に思います。
自然に書いたら、従来の調性音楽と違った自然な音楽になるというのなら、どんなに斬新でもかまわないのだが・・・
実際の作曲に際しては
非西洋の音楽を含め、いろいろな音楽に接するように努めていますが、実際の作曲には、自分の充分に消化したもの、自分の音楽として出てきたものしか完成された作品として発表しないようにしています。
だから、自作は結構、穏健な作風で、最新作でも、全音階的な部分も多いし、旋律線もわかりやすい曲になります。
huhutkyさんのレパートリーよりも、ずっと保守的かもしれない。
この11月7日にも作品が演奏される機会があります。しかも再演。
(サイト参照)作品が演奏されるのは今年2回目。
無名の作曲家の作品でも取り組んでみようという演奏家がいるということは、とても嬉しいことです。
この項は、1999年10月20日〜25日にかけてのYahoo掲示板上で行われた会話に基づき、整理・再録したものです。
2001年9月10日Web上に公開
近藤浩平