森を歩いているとき、最初、2種類程度の鳥の声しか意識しなかったのが、立ち止まって耳をすますと5種類ほどの鳥の声が聞こえ、さらに耳をすますと、はるか谷底の獣の声や、虫の音、ずっと遠くの鳥の声などが次第に判別されてくる、しかも小さい音をフォーカスして聴くこともできるし、いろいろな音をスキャンするように順番にフォーカスして聴くこともできる。
音は、どこに焦点をあてるかによっても聞こえ方が変わる。物理的に同じ音量でそれぞれの鳴き声が鳴っているのに、どの鳥の声を聴こうとするかによって、ある音が、前面に出たり、背景に沈んだりということが経験される。
また、森に入ったとき、多くの鳥の声を知っている人には、多くの種類の鳥の声が把握されされますが、知らない人には、漠然とわずかな種類の鳥の声としか把握できず、記憶にも残らない。
音楽を聴くときも同じことが起こっているはずです。例えばオーケストラの曲を聴くとき、同じ録音を聴いても、どのパートの音に注意を集めるか、また、その人が、どの程度の数のパートを同時に区別しながら追尾していくかによって、聴こえ方そのものが異なるはずです。
また同じ音にフォーカスしても、音の属性のうちどれに最も注意を注ぐかによっても、聴き取るものが大きく違ってくるようです。この耳のフォーカシングのあり方は個人差や音楽文化によってかなり差異があります。ある音をどう意味づけて聴くか、という前段階で、どの音をピックアップして聴くのかという違いもあることは、同じ音楽を聴いても違う音楽を聴いている、さらには同一人物が聴くたびに違う音楽を聴くとるということまで引き起こします。その上で音をどう関係づけ、どのような意味をそこに感じるのかは、文化の背景などによってもさらに異なってくる。実際、同じ曲の同じ録音でさえ、聴きかえすたび新しい音に気づきます。
未知の様式の音楽に接したとき、その音楽が求めている聴き方ができない場合、音楽がわからないということが起こる。また、複数の音にフォーカスしながら追っていく聴き方を要求する音楽が、そういった聴取習慣をもたない人には、把握しきれないということもある。
音楽にはわかる、わからないが厳然とある。
未知の音楽については、聴き方を学ぶということが必要になる。
1999年10月27日 近藤浩平記