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「剽窃」と「影響」のあいだ

作曲において、「剽窃」「盗作」とみなされることは不名誉なことだ。しかし、膨大な作品が作曲される中、数多くの音楽を聴き、具体的な影響を吸収しながらなされる作曲されている中、無意識あるいは意識的に影響を受けたり、あるいは偶然などにより、他の先行して作曲された音楽作品に似た音楽が作曲されることがある。作曲した本人は全くオリジナルにつくったと考えていながら、本人も忘れていた過去の聴取の記憶から既存の音楽作品と類似、酷似した音楽が作られてしまうこともある。
非常に強く、ある音楽に心酔し、具体的で強烈な影響を受けながら作曲された音楽が、極端な場合、「剽窃」「盗作」と受けとめられたり、そこまでいかなくても「模倣」、「アイデアの盗用」と受けとめられたりして物議をかもすこともある。
著作権保護の観点から「剽窃」は避けられなければならない。しかし、音楽の伝統が形成され、先人の経験や着想が受け継がれて次世代の音楽の要素として蓄積されていく過程で、似た作品が作曲されること、同工異曲がつくられることは、避けなればならない事柄ではなく、むしろ、必然的に起こってくる必要なプロセスだと私は考えたい。

作曲家、高橋東悟氏のWebサイト「現代音楽と小説の部屋」の「雑感さまざま」というコーナーに、「剽窃」について興味深い文章がある。これを読んで、私が高橋氏のサイトのBBSに書き込んだ感想を、以下に再録してみた。

確かに、似ることをそれほど気にする必要はないですね。
18,19世紀の大作曲家でも、とくに若い頃の作品は、先人に似ているどころか、真似といってもいいくらいに似ていることがありますね。先人の模倣のような初期作品がたくさんあって、その後に、成熟した個人様式に到達している。
現代の作曲家にも、そういった過渡的なプロセスがあっても何ら問題ないと思います。
高橋さんの作品にリゲティに例えばテクスチュアなどが似た部分があったとしても、それは、モーツアルトの若い頃の作品に、ミスリベチェックやクリスチャン・バッハやミヒャエル・ハイドンのある作品に、そっくりというかほとんど模倣のような部分があったりすることと同様、気にすることではないですね。むしろ、音楽的豊かさへのプロセスを示す物。
音楽語法が急速に転換する特殊な時期はともかく、音楽語法や様式が成熟して、音楽作品としての成果になってくる時代には、先行する作品の様式が取りこまれ上書きされていくのは、むしろ当然のことだと思います。
19世紀の大作曲家の作品でも、今では、一握りの作品と作曲家しかレパートリーに残存していないので、気付きにくいが、先行する作曲家にそっくりの部分というには、しばしば現われますね。
ブラームスの曲に、ライネッケやヒラーの作曲年代で先行する作品に、やたらと似た部分があったり、ボロディンの交響曲がフォルクマンの交響曲のアイデアの模倣かというほど似ていたり、ショパンの曲に、フンメルそっくりの装飾があったりなどということがあっても、剽窃として非難する理由はありませんね。
脱線しますが、自分の前作に似ていること、同工異曲をたくさん書くことを「自己模倣」として批判的にみることも、ブルックナーのような「深化」のプロセスを妨げてしまうように思います。
そういえば、先日の某初演作にも、あれ、デュティユが一瞬かすめたぞ、とか、あの和製打楽器(ささら)を使うのは近年流行か、とか、メシアンの「渓谷から星達へ」のホルン独奏を連想させる部分があるぞなんてことがあっても、真似だと非難する意味はないですね。
どの時代の音楽も、その前の時代の音楽作品の着想や構造を具体的に取り込んでいるのは当然だし、音の構造が似ているというレベルの模倣が駄目なら、ドソミソのアルベルティ・バスをアルベルティ以降の古典派作曲家がこぞって使ったのも、皆でやればこわくない部分的パクリだということになりますね。
同じ構造・配置のものがあっても、音楽的文脈が違えば別の音楽。
とくにポピュラー音楽などコード進行が同じであると言い出したらきりがない。

2001年10月22日
近藤浩平

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