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モーツアルトさえあれば他はいらない!!?

モーツアルトの音楽の完全性・完結性

モーツアルトには、ほとんどモーツアルト以外は聴かない、モーツアルトだけが特別な神に愛でられた音楽だとまで言う熱狂的な愛好者が多い。
 モーツアルトの音楽は、オペラから宗教音楽、声楽曲、交響曲、室内楽、ピアノ曲さらには管楽器、グラスハーモニカなどのにいたるまでほぼ全てのジャンルをカバーしている上に、人間の喜怒哀楽、笑いから恐怖まで、スポーツ的運動感から知的な精巧さまで、人間生活の多面的場面のそれぞれの典型を含んでいるため、「明るい音楽が聴きたい、厳粛な音楽が聴きたい、笑える音楽が聴きたい」など、一人の人間の音楽生活にあらわれる様々な欲求を一通りカバーしてしまう小世界となっていることが、「モーツアルトだけを聴いて生活する」という生きかたを可能にするのだろうか。
 ブルックナーのように生涯をかけて一つのものを表現しようとした作曲家の場合、彼の音楽だけで生活の全場面を満たすというわけにはいかない。ある日はブルックナーを聴き、翌日は、オッフェンバックを聴いてみようかということになってくる。ところが、モーツアルトの場合には、それぞれのシチュエーションと精神状態にあった音楽が、そえぞれ用意されているので、モーツアルトだけしか聴かないという人はとくに不足を感じることなく生活していくことが出来るのかもしれない。
 さらに、18世紀の調性・音楽様式にどっぷり浸かることで、それ以外の音楽様式を許容する聴取態度が失われてしまうことが「モーツアルトだけの音楽生活」に拍車をかけてしまう。音楽生活のほとんどを古典派音楽様式の音楽で満たしていれば、19世紀以降に現われた音楽表現や、18世紀クラシック音楽以外、たとえばポピュラー音楽やジャズ、ラテンから民俗音楽まで、それぞれの音楽様式が前提とする聴取態度を獲得することが難しくなってしまう。
 モーツアルトの音楽が、18世紀中欧の人間の生活の全てをいわば包括的に表現することで、普遍的人間の基本的・本質的な表現を全て包括した完全性をもっているのだというわけにはいかない。なぜなら、18世紀の中欧以外の世界が、現実世界には広がっているからだ。
現実の世界には、モーツアルトの生きた社会には存在しなかった、生活感情、信仰、世界観、社会構造の中で生きている人間がたくさんいる。これら全てを、モーツアルトの音楽が代弁するわけにはいかない。

モーツアルトさえあれば他はいらない?

 音楽や作曲家は、一つの基準で優劣を競っている競技ではないので、たとえば、モーツアルトが質、量ともドヴォルザークを上回っていたからといっても、やはりドヴォルザークの音楽には彼の音楽でしか得られない喜びがあると思います。モーツアルトにはあってドヴォルザークにないものの方がたとえ多くとも、ドヴォルザークにしかないものがあります。
 陸上の100m走なら世界記録や金メダル選手に注目して、2位、3位や10位の選手がどんなに美しいフォームで走っても負けは負けということになるでしょうが、音楽は単純な競走ではないのです。
 ドビュッシーには、ベートーベンには無い独自のものがあり、もっとマイナーな作曲家、例えばモンポウの音楽にも、やはり、そこでしか得られないメッセージがあると思います。
 モーツアルトしか聴かない、バッハしか聴かない、あるいはもっと広くクラシック音楽しか聴かないという排他的な言いまわしをされる方がいますが、これは、新しい出会いの機会を見逃すという面ではもったいない生活パターンかと思います。
 旅行でいえば、「毎年ザルツブルグ音楽祭に参りますの。」という生活と、アフリカやアジアやイスラム圏や中南米やチベットまで世界中の未知の土地を旅して回る旅と、どちらが地球と人間について深く経験できるかということに例えられるでしょうか。
 有名で偉大な人物だけが素晴らしいわけではなくて、身近な無名の人にも愛すべき人達がたくさんいるように、大作曲家や大演奏家だけではなく、たとえば無名の民謡歌手にも素晴らしい音楽やかけがえのないその人だけのメッセージがあることも多いのです。
 この考え方については、演奏家への手紙も参照してください

 私は作曲家ですが、質、量とも古今の大作曲家には到底足元にも及びません。しかし、それでも、自分にしかないもの、過去の作曲家が誰も表現しなかったメッセージがあるので曲を書きます。
2000年8月5日
近藤浩平

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