山の作曲家、近藤浩平 トップページに戻る
もっと日常のレパートリーへ
19世紀以前の演奏会のレパートリーは、ほとんど同時代の音楽で占められていたというが、現代の演奏レパートリーは、クラシック音楽の膨大な蓄積の中から一握りの大作曲家の代表作だけを繰り返し取り上げる習慣になっている。
オーケストラ、室内楽、ピアノ、声楽、オペラ……クラシック音楽が培ってきた演奏メディアは素晴らしいものだ。作曲する立場からすれば、この演奏メディアが、同時代のシリアスな表現手段に使われずに、100年以上前のヨーロッパを中心とした一握りの大作曲家の代表作を音にするためだけにもっぱら奉仕している状態を眺めているのは極めてはがゆいものだ。クラシック音楽の演奏メディアは、日本、アジアを含め世界の広い地域に広がっている。もはや、ヨーロッパ等の一握りの大作曲家の音楽に奉仕するだけのもので在り続けるわけにはいかない。世界の様々な文化や価値観を背景とした、様々な音楽、同時代の様々な表現を伝える演奏メディアとして解放されるべきだ。
もちろん、演奏メディアは作曲家が使う「道具」ではない。何を演奏するかは、演奏家が決めるものだ。演奏者の曲目選択の影響力は非常に大きく、演奏されない音楽は消える。ヨーロッパの大作曲家以外の人間が、クラシックの演奏メディアを自分の音楽表現の為に使うためには、演奏したいと思わせる曲を作るか、お金を出して無理矢理演奏させるか(笑)のどちらしかない。
20世紀において、作曲家達は音楽様式を拡大することに大きなエネルギーをかけた。現代作品を難しいものにする副作用も大きかったが、このことは様々な文化や価値観を背景とした多様な音楽を作曲する自由をもたらした。21世紀においては、作曲家は日常の演奏レパートリーを供給することを強く意識するべきだ。日々の新しい出し物を供給し、日常の演奏レパートリーを乗っ取っていこうという野心を抱くべきだ。これが本当にラジカルな変化をクラシック音楽にもたらすことになるだろう。
(国際芸術連盟会報パウゼ2005年4月号に掲載)
2005年4月10日