もっと日常的なコンサート通いへ
クラシックを聴く人の多くは、有名古典名曲は、ものすごい世界的演奏家の演奏をCDやコンサートでさんざん聴いているので、身近な演奏家などの演奏を聴きにわざわざでかけるのは、知り合いの義理があるときくらい。特別な名声を得た人気演奏家以外のコンサートは、聴きに来ているのは関係者ばかり。
多くの人が、有名ブランド演奏家に高い入場料を払って、年にほんの数えるほどの回数しかコンサートには行かない。私の周囲でも、年に1〜2回だけ超有名来日演奏家やヴィーンやベルリンの有名オーケストラしか聴かない、地元オケの定期演奏会や、地元の中堅演奏家などは全く眼中にないという音楽ファンが結構多い。
世界的演奏家でなくても、他で聴く事ができないその人それぞれの個性的な音楽的メッセージや個性的レパートリーがあれば、それぞれの存在意義があるはずだし、生演奏を日常的に気軽に聞くということにはCDや大ホールでは得られないものがあると思う。リーゾナブルな料金で、日常的に身近な演奏家のコンサートを、ちょっと喫茶店に入ったり雑誌を買ったり映画を見に行ったりするくらいの気楽さで、会社帰りや買い物帰りにふらっと聴くというような生活スタイルがあってもよいのではないだろうか。
そこで、1回1回新鮮なネタの出し物を見聞きする。
使用料の高いホールを使わず、入場料をおさえ、もっと効率的に告知と集客がされて、演奏家はもっと気軽にコンサートを開く。
もっと日常的な新しい作曲へ
「現代音楽」の世界では、ほんの一握りのエリート作曲家の作品が、ほんの一部の特別な演奏家に演奏され、ほとんど一般の聴衆がいないという場面によく出くわします。
作曲コンクールの本選会というのも行ったことがありますが、非常に立派な演奏で、手の込んだ複雑な作品が、審査員しかいないガランとしたホールで演奏されている。
果敢に現代の作品の紹介に関わっているのは、ごく一握りのエリート演奏家だけで、ほとんどの演奏家の日常レパートリーは、古典やロマン派の名曲のうち、そのまたほんの一部の有名曲を、先生におそわった解釈を継承しながら繰り返し演奏することとどまっていて変化を求める創造的エネルギーに乏しい。
新しい音楽が生まれる場所は、難関の作曲コンクールを突破して、現代音楽祭みたいなところで特別高度なテクニックを持ったエリート現代音楽演奏家によって演奏されるという形しかありえないとは思えない。
もっと、普通の演奏家の方々の日常の演奏活動の場で、繰り返し演奏され残っていくという新しい音楽作品、作曲家の活動の有り方があってもよいように思う。
聴きにきた人が、自宅でベートーヴェンやショパンを弾いて楽しむように、今日、聴いてきた新曲の楽譜を買って、自分でも弾いてみようかなと思うくらいに身近な現代作品があってもよい。
もっと身近なつながりを
演奏家のうち、多くの方が、あまりに同時代の音楽と関わりがなく、作曲家の多くは身近な演奏家や聴衆とのつながりが乏しい。演奏家や作曲家は身近なところにいる音楽ファンとのつながりが乏しい。近所に音楽家が住んでいても接点がない。作曲家と演奏家がコラボレーションで、身近なところで、コンサートをつくっていったりということがもっと、あってよいと思う。街の音楽家、村の音楽家という存在を取り戻すことで、大量に企業的に商品として供給される商業音楽ではない音楽が聴かれる場が取り戻せないだろうか。
2002年1月13日
近藤浩平記