政治的主張をもったアメリカの現代作品のレパートリーについて質問をいただいたのを機会に、20世紀のクラシック系芸術音楽作品と政治的主張の関係について少し触れてみます。
西側知識人による理想主義的政治的作品
政治的発言をもった現代音楽作品については、松平頼暁著「現代音楽のパサージュ」青土社刊に、「政治への発言」というまとまった章があり、ノーノ、ヘンツェ、ジェフスキ、カーデューなどが取り上げられています。この中に取り上げられているもので1970年以降のアメリカ合衆国の作品としてはクリスチャン・ウォルフの"Accompaniments"というピアノ曲が挙げられていますが、カーデューと同様に毛沢東主義に接近したいわば西側知識人による理想主義的な「共産主義」憧憬の音楽が、政治的に今日どういう意味を持ちうるのかは疑問なところです。
クリスチャン・ウォルフのこの作品については私自身はまだ実際に耳にする機会を持っていないので、作品そのものについてはコメントが出来ません。
政治的強者の音楽と政治的弱者の音楽
政治的な主張・立場が音楽の内容に反映した音楽には、大きく分けて2つの種類があると思います。
1.政治的強者の音楽、あるいは支配者側に利用されたあるいは迎合した音楽
2.政治的弱者の音楽、抵抗者の音楽
旧ソビエトの社会主義リアリスムの体制礼賛的作品、あるいはアメリカ合衆国のロイ・ハリスやコープランドなどの自国礼賛型作品は前者の例でしょう。
後者の例は「芸術音楽」としては、政治的圧迫や非常時に生まれる作品に切実なものが当然多く、ショスタコーヴィチ、アイスラー、ハルトマン、ダルラピッコラなどによく知られた作品が多いことは周知のことと思います。人種的差別に対するものとしては、スティル(W.G.Still)など黒人作曲家のもの、依然として政治的圧迫の強かったギリシャにおける、クセナキスやとくにテオドラキスなどが第2次大戦以降のものとしては有名なところでしょうか。
クラシック系の芸術音楽の音楽家達の政治的社会的立場
しかしながら、クラシック系の芸術音楽=現代音楽は基本的には、世界的視野で見て政治的経済的強者である白人の比較的富裕な層にある音楽家が多く、より具体的な政治的メッセージと社会的ムーブメントを持った音楽は、それ以外のところにより多く存在すると思われます。
例えばラテン・アメリカのポピュラー音楽には政治的社会的弱者の側にある音楽が多いのですが、ヨーロッパ系の芸術音楽作曲家には、ポンセ、ヴィラ=ロボスなどのようにあまり政治的社会的背景は感じられません。
アメリカ合衆国やヨーロッパにおいても、政治的社会的弱者の音楽は「クラシック音楽」ではなかったので、当然ながらロック、フォークなどに当事者としての音楽は多いと思われます。
借用されたモチーフ
ヘンツェ、ノーノ、ジェフスキ、ベリオなどの政治参加の音楽と言われているものが、たとえばラテン・アメリカ等のレジスタンスの音楽あるいは、チェ・ゲバラやキング牧師などの政治的モチーフを借りて書かれているのは偶然ではありません。
少々厳しい言い方をすれば、こうした音楽は、いわば「農奴の立場に共鳴して革命を賛美する貴族の息子」のような立場にあると言えるでしょうか。
ジェフスキの有名な「不屈の民変奏曲」は音楽作品としては見事なものですが、それでも、音楽的切実さ、メッセージの強さとしては原曲のセルジオ・オルテガの歌を越えておらず、元のテーマが最も感動的という変奏曲という形式の罠が感じられます。オルテガの歌を、リスト、アルカンにつながるような19世紀ヨーロッパ上流社会ピアノ音楽の流れを組む技術の粋をつくして変奏することで政治的メッセージは強められているとは思えません。オルテガの原曲を上回る感銘を与える変奏が現われているようには思えないのです。長大な演奏時間の流れの中である種、永続的な力のドラマとして感銘を作り出してはいるとは思いますが、各部分としては原曲を上回ってはいないように思います。
現代アメリカの政治的音楽
アメリカ合衆国では、自国が世界に対する覇権として引き起こす様々な行為への不賛成・抵抗という意味で、政治参加の音楽が切実に生まれる状況があるように思われます。
ベトナム、湾岸・・・徴兵する側と、徴兵される側、覇権を認める側、認めない側。
徴兵される人間はいわば政治的弱者で、強大な国家権力に対し、たとえ民主主義国家であっても国民個人は弱者であるという状況があるという例でしょうか。
この場合も主役となった音楽は「クラシック系現代音楽」のアカデミックな権威ある作曲家達の音楽ではなく、むしろロックやフォーク・ロックの方が主役であったと思います。 クラシック系現代音楽ではジョージ・クラムなど、こうしたロック、フォーク以降の音楽環境の中で台頭して来た世代以降に当事者としての同時代の実質的な政治主張を持った作品があらわれてきているように思います
民族主義音楽と政治
ところで、民族主義の音楽は、非常に広範な音楽が含まれることになりますが、これが民族国家を意識したものとなると政治的なものになると思われます。民族国家というのは19世紀以降とくに強まったイデオロギーと言えるでしょうが、その民族の置かれている政治状況により、民族主義の音楽は強者の音楽になったり弱者の音楽になったり、レジスタンスの音楽になったりするという事ができるでしょうか。
今後の政治的音楽の展開
政治的発言の音楽といえば、従来は政治体制や、戦争に関わるものが多かった思われますが、今後、現われてくるものとして、社会的価値観などに関わるものが増えてくると考えられます。
資本主義の経済成長優先の大量消費社会を前提とした政策への抵抗、原子力の推進か反対か、軍事力依存か非武装主義か、開発優先か自然保護優先かなどといった、
従来の資本主義VS社会主義という図式、支配者VS被支配者という図式には当てはまらない政治的主張の対立を背景としたタイプの政治参加の音楽が現われてくるでしょう。
たとえば、政府が推進する大規模開発や公共事業(至近な例でいえばダム建設や干拓事業)などに反対する作品を発表した作曲家が、国営放送から締め出されるなどといった新たな対立の形があらわれてくることは予想されることです。
たとえば、私自身の音楽は「山の作曲家」らしく自然に関わるものが多く、直接的に政治的なものでは一見ありませんが、開発至上主義の土建業利益誘導を政策とする日本政府、とくに建設省などに対立する政治的主張の音楽であると言えば、政治参加の音楽と解釈できることになります。
また、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカなどの音楽に影響された要素が数多く含まれている音楽を意識的に作るということは、ヨーロッパ・アメリカの文化が経済的政治的優位のもと世界を制してしまうことへの抵抗があると言う事が出来ます。(逆に植民地主義的な異国趣味に陥る危険と表裏ですが)
政治が人間個人の生活スタイル・生活環境に影響するものであるとすれば、なんらかの社会的価値観・主張を持った音楽は、政治的意味を含んでいると言えるでしょうか。
2000年12月14日
近藤浩平
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