音楽にはクラシック音楽も、他にもいろいろな音楽がある、とことん娯楽に徹したクラシック音楽もあれば、宗教、信条、哲学、政治にまで深く関わった娯楽で済まされないシリアスなポピュラー音楽もある。
ヨーロッパの貴族の優雅さにあこがれて、着飾って行くスノブなクラシック音楽もあれば、それを歌うだけで政治犯になって投獄されてしまうような民衆の歌もある。売れるために、人に媚びる気持ちよい音で計算ずくで作られた音楽もある。娯楽や快楽である一方、とても厳しいメッセージも音楽は伝える。
音楽は、人間にとって時には娯楽であり、時には宗教や思想信条に関わる切実なメッセージであったりもします。聴くのが辛いほどシリアスな音楽もあります。音楽の役割の違いはジャンル分けとは、一致はしません。
音楽の楽しさ、快さは、大切な喜び。一方、音楽は、単に気持ち良い音をならべるという以上のものを伝えて、より深い感動を与える。
極端な例ではショタコーヴィチやシェーンベルクやノーノの音楽には、「音楽は気持ちよければそれでいい」という台詞を言えなくしてしまう辛い音楽もある。
ガーシュウィンの音楽も、一聴した音の気持ち良さの奥に、単に気持ち良い音を並べた娯楽ではない、痛切なものをもっている。
リヒャルト・シュトラウスのとことん華麗なヨーロッパ上流社会娯楽的オペラも、単純な気持ち良さ以上の感動があるから、今日まで愛されている
ラテンアメリカをはじめ各地のポピュラー音楽、フォークロア、アメリカのブラック・ミュージックなど、深い音楽はいたるところにある。
一見、単なる娯楽音楽のふりをしながら深い音楽もあり、一方、クラシックの権威を背景にして深刻な素振りを見せながら、聴く人にテクニカルな興味しか抱かせない浅く空虚な音楽もある。
「音楽は楽しければそれで良い。」「音楽は気持ちよければそれで良い。」「音楽を聴くことに、何も考える必要はない。」といったことを開き直ったかのように言う人達もいる。「音楽は個人の嗜好に過ぎない、単なる好き嫌いの問題で、自分が好きで気持ちの良い音楽が良い音楽だ。難しい音楽なんて聴く意味はない。」と単純に言いきる人達もいる。
私は、音楽は娯楽、嗜好、個人の趣味という以上の大きなものだと思う。
「音楽は、音楽家が、その時間的、地理的、社会的位置にあって持つにいたった価値観、美意識、世界観といったものの表現であって、他の立場の音楽で代用することは決してできない。世界には様々な音楽があり、クラシック音楽もそのひとつに過ぎない。ところが、20世紀、もともとクラシック音楽が生み出した表現手段は、世界中の様々な地域の様々な文化を背景とした音楽家が、”自分達の音楽”の表現手段として使うことができるものになってきた。」
(1999年11月7日「青と緑の稜線ピアノコンサート」 プログラム)
ピアソラの音楽はクラシックの演奏家のレパートリーにはいり、ジャンルを越えて多くの人を捉えている。
ラテン・アメリカのクラシック音楽分野の作曲家、ヒナステラやヴィラ=ロボス、レブエルタスやチャベスなどの音楽も、最近、次第に耳にする機会が増えてきました。
アルゼンチン国立交響楽団の来日公演の曲目にはヒナステラとピアソラがはいっていた。
オーケストラ曲や室内楽、ピアノ曲など、従来クラシック音楽のメディアだった演奏形態で、ヨーロッパ以外の作曲家が続々登場してくる。ドイツ古典音楽の独占状態と、ヨーロッパ音楽を頂点にした価値観が次第に後退していくのは、クラシック/現代音楽といわれる分野でも世界的動きになってきた。
クラシック音楽以外の音楽文化もバックグラウンドに併せ持った作曲家があらわれ、ジャンルの境界も崩しつつある。
ガーシュウィンからフィリップ・グラス、ギャヴァン・ブライヤーズ、マイケル・ナイマン、ガンサー・シュラ−などに至る多くの作曲家がジャンルを越える音楽として語られている。
実は、ずっと以前、19世紀ー20世紀前半の国民主義、民族主義の音楽も、当時としては、ジャンルの越境を志向する音楽だった。上流社会の音楽に、庶民の民俗音楽をもちこんだものだ。だから、ロシアの民族的作曲家たちは「御者の音楽」と言われた。
それどころか、作曲の現場では、ハイドン、シューベルトやブラームス、遡ってバッハ以前から、実際には多くの音楽家が、上流社会、貴族の音楽、あるいは教会の音楽であった"クラシック音楽"に、庶民の音楽を持ちこみつづけていた。
ヴィラ=ロボスの重要な連作「ショーロス」は、クラシックのモダニズム的作曲技術と、”ショーロス”というブラジルのれっきとしたポピュラー音楽のジャンルとの越境である。ヒナステラの音楽もアルゼンチンの民衆の音楽に深く根ざしている。ピアソラの音楽と、ラテンアメリカのクラシック音楽への評価が、並行して起きることは全く不思議ではない。
ピアソラ、ヒナステラ、ヴィラ=ロボス、グラス、ライヒ、ルー・ハリソンなどが多くの人に聴かれはじめ、表に出てきた背景には共通の状況がある。
多くの人が”自分達の音楽””自分達の音楽文化”をバックにした音楽”を求めている。北米やイギリスで例えばロックを経験した世代の作曲家は、自分の音楽的バックグラウンドのひとつであるロックを当然のように反映させた音楽をクラシック/現代音楽の演奏の場にも送り出す。聴衆の多くも、同時代の音楽文化や生活感情や音楽感覚を共有している。
ラルフ・ ヴォーン=ウィリアムスの理想
イギリス近代の作曲家、ヴォーン=ウィリアムスがその著書、「民族音楽論」(National
Music)にこんなことを書いている。
「民謡は、われわれのさまざまな音楽的趣味を和解させるためのきずなではないだろうか。ポピュラーとクラシック、低級な音楽と高級な音楽というぐあいに、われわれはあまりに音楽を区別しすぎる。われわれはいつか、ポピュラーでもクラシックでもない、高級でも低級でもない、あらゆる人びとが参加できる、理想の音楽を見出すだろう。フィレンツェの群集が、チマブエの偉大なマドンナを大聖堂に運んだ時の行列を、おぼえているだろうか。われわれの芸術はいつそのような勝利を獲得できるだろうか。芸術の大衆化はホイットマン的な夢想にしかすぎないのだろうか。現在、それは夢である。しかし実現可能な夢なのだ。われわれはこの夢の中に、われわれの芸術が真の生命をもち、その中により大きな生命への芽をもっていることを理解しなければならない。われわれの芸術が生きつづけているという証拠は、われわれの民族の精神的願いを、いく世代にわたって歌ってきた民謡以外の、いったいどこに見いだせるだろうか。」(塚谷晃弘訳、雄山閣刊)
ヴォーン・ウィリアムスの「民族音楽論」は1934年に初版が出ている。現代の私達にとって何が彼の言う民謡に相当するのかは、簡単に言うことは出来ない。
そもそも地域的共通文化=共同体の音楽としての「民謡」という概念を、そのままあてはめるには現代社会の音楽環境は複雑すぎる。しかし「民謡」を私達のネイティブの音楽文化として広く考えたとき、音楽の将来に何か希望が感じられないだろうか。
聴衆と乖離していると言われている20世紀のクラシック音楽の中で、ヴォーン・ウィリアムスやホルストの音楽、あるいはヴィラ=ロボスの音楽は、誰もが近づける音楽になっている。演奏機会さえ増えればもっと多くの人に愛される音楽になるだろう。決して聴衆の保守性に迎合してレベルを落とした音楽ではない。彼等の音楽がシェーンベルクやヒンデミットの音楽に比べて後進的ということも決してない。19世紀のロマン派音楽からの距離という観点から見れば、むしろ遠い地点にあるかもしれない。