ポピュラー音楽を作るのは簡単か
>「特別に優れた個人だけが創造的な音楽行為を行う」というクラシックのパラダイムを、ポップスやロックは「誰でもいつでも間単に理解でき参加できる音楽こそがのぞましい」というふうに変換したのでしょう
ある方が上記のようなことを書いていた。音大や師事歴などの学歴やアカデミックな権威づけ、クラシックの非常に技術重視のコンクール。非常に高いレッスン料や楽器代を負担できる家庭の子弟が多いという傾向。これらとポピュラー音楽を比較して、このようなことを書かれたのかと推察します。
実際は、ポピュラー音楽では、レコード会社、プロデューサー、放送など大きな資本主義的なシステムにいかに「稼げるアーティストとして認められるか」という別の「権威」が、猛威をふるっていて、100万枚CDを売る一握りのアーティストがプロフェッショナルな技術をもったスタッフに支えられての巨大なプロモーションを展開し、この流通に乗ることができる、ごく一握りの「スター」と、その音楽を聴き憧れる音楽消費者という構造があるので、実際はこのような理想主義的な民主性、開かれた参加性として、クラシック音楽と対比できるほど事態は単純ではないでしょう。
さて、実際の音楽活動として、クラシック音楽は、「優れた個人」だけ、「選ばれた個人だけ」の「選良」だけができるもので、一方、ポップスやロックは誰でも簡単なものなのだろうか?
あるレベルでの音楽の技術的側面ではそういう場面もあるのかもしれないが、ある程度社会的に認められるレベルで活動するための要求水準を考えれば私はそのようには思えない。
クラシックは、乱暴な言い方だが、あるレベルの演奏技術と様式理解を習得してしまえば音楽家個人の自立した個性がなくても、ある程度は立派な音楽を鳴らすことができるシステムをもっている。また、たとえ演奏の大きな差はあっても、ベルリン・フィルも、アマチュアの初心者が演奏してもベートーヴェンはベートーヴェンとして音楽が響く。
もちろん、演奏の中身は、天才的なものからどうしようもなく退屈なものまで果てしない差違はあるが。
ところが、ビートルズ、クイーン、ジョアン・ジルベルト、ピンク・フロイド、ジミ・ヘンドリックス、プレスリー、中島みゆき、矢野顕子、ヴェロソ・カエターノ・・・ポピュラー音楽の個性的な大物の音楽を思い起こしてください。
同じ楽曲を他人が演奏してもその音楽にならない。楽譜をコピーして再現しても、その音楽を再生産できない。すぐれたポピュラー音楽の本当の価値は、楽譜に書くことのできない部分にたくさん含まれています。
ポピュラー音楽の、一見シンプルな楽譜にだまされて、あたかもポピュラー音楽の傑作を作曲することが、大規模なクラシック作品を書くことよりも易しいかのように思っている方もいるようですが、決してそんなこともありません。
簡潔な基本三和音だけで出来たハイドンのある楽節が、たとえば複雑に交錯した近代音楽の楽節を作曲するより簡単ではないようなものです。
ロックやポピュラー音楽、とりわけJ-POPなどには、ひどくちゃちなものも膨大にある一方、大変な音楽的バックグラウンドの裏づけのあるものもたくさんありますね。
どこかの音大で教鞭をとりつつ細々現代音楽を発表しているクラシック系の作曲家や、教え子しか聴きにこないリサイタルを数年に1回やっているだけのピアノ科の教授ピアニストが、世界的ポピュラーミュージシャンよりも音楽的な個性と実力があると言えるわけではないのですから、クラシックの音楽家がポピュラー音楽よりも、高度で複雑であると、まとめて比較するのは意味がない。
プロコフィエフやリストの難曲は弾けるが楽譜がないと何も弾けないし、同時代の作曲家とのコラボレーションをする気持ちの欠片さえないクラシックのまじめな演奏家のピアノと、矢野顕子のピアノと、どちらが音楽的に高度で自立した実力があるか。
ところで、私は、ラテンのポピュラー音楽をよく聴きますが、彼らの、楽譜には写し取りきれない絶妙のリズムアンサンブルのセンスなどには、本当に強くあこがれますし、バーデン・パウエルの作曲したアフロ・サンバの楽曲などの見事さには驚嘆さされます。、これとたとえば日本の創作オペラの中などでしばしば出くわしてしまう、ぎこちないアリアとを比較すると、やはり才能の差を感じてしまいますね。
楽譜上で珍しい和音があるとか、凝った作曲技法が使われた複雑な構成になっているとかいったことと、作品の高度さは直接比例するものではないですね。
(2004年4月10日)