山の作曲家、近藤浩平のページ
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私が作曲をはじめた頃


私が作曲をはじめたころ         

「作曲」の発見

 子供の頃は、大人の権威が教える「クラシック音楽」は昔の音楽を習って上手に演奏するだけのものと思っていたのでとくに興味がなかった。一方、ポピュラー音楽、歌謡曲などもいかにも、大人の商売人が売りつけてくる商品の臭いがして、それに単純に踊らされる気もしなかった。
…なんと反抗的な子供!
 絵を書いたり、文章を書くほうがおもしろかった。自己表現をし、同時代の問題を考えることが興味の中心だった。私が「クラシック音楽」の作曲をしようと思い立ったのは、聴きにいった演奏会で、現代作品に接してその大胆さ、自由さに驚嘆したこと。図書館で名曲解説事典など見ていると、後ろの方に、音楽室の後ろの壁には肖像が掲げられていない数多くの人物(写真だ!まだ生きている!)が載っていて、これまた複雑で怪しげな譜例がのっていて、一体どんな音がするのだろうかと好奇心が湧いたのが最初だ。

徹底的に自由な音楽 周囲の誰も聴いていない「現代音楽」
 レコード屋のクラシック売り場の片隅の棚1段に満たない「現代」のコーナーから見つけて小遣いで買ったシェーンベルク、ホルストやメシアンやシュトックハウゼンなどは刺激的だったし、ラジオで聴く石井真木などの音楽も、不気味で、秘密の場所であった。これが「クラシック音楽」に分類されているのも驚嘆だった。
 反抗的であるはずのロックのバンドをやっている連中が、まじめにコード進行と、4拍子系の拍節を、市販のマニュアル本など見ながら順守しているのが、「反抗の不徹底」に見えた。プログレ好きの連中にヴァレーズなど聴かせると、「こんなうるさい音楽は聴いてられん」と言った。 身近にこんな音楽を聴く人は誰もいなかった。
 近所の某学校では「クラシック音楽」以外の音楽活動(ロックバンドなど)を、堅い教師たちが制限し、校内放送は「クラシック音楽」にされていると聞き、それならシュトックハウゼンとやヴァレーズとかペンデレツキを大音量でかけて、「これはクラシックです」と開き直れば、教師がどんな顔をするだろうかと考えたりした。 その学校にこれをやる気概のある生徒がいなかったのが今でも心残りだ。
 作曲は、「きれいなメロディを作って伴奏をつけるもの」だったのが、「巨大な自由度をもった音を素材とする一大プロジェクト」へと突如変貌して現れた。

最初の作曲
 近現代のオーケストラ曲の複雑で巨大なスコアは、「作曲活動」というもののスケールがどこまで大きく自由になり得るかを示す象徴だった。
中学生の時、初めて五線紙に自分で音符を並べてみた。楽譜の書き方や楽器法の本を買って、わかるところだけ読みはじめた。最初に書いた曲は、異常に単純な無調の音楽だった。
周りの友人は私の楽譜は、でたらめだと思っただろう。ピアノも習ったことがなく、家にあって誰も弾いていないピアノを好き勝手に弾いてみた。

演奏される音楽へ
 作曲をはじめて5年目、我流で書いたオーケストラ曲を、旺文社の「全国学芸科学コンクール」高校生の部に送ってみた。旺文社主催、文部省後援の学校生徒向けコンクールなど私の曲が相手にされるわけはないと思いもしたがひそかに自信もあった。結果は全国2位銀賞だった。審査員の團伊玖磨氏、富田勲氏に感謝。
 これで、私の書いている怪しげな楽譜は、どうやらデタラメではなく、一応音楽になっているということになり、学生になった頃から、音を鳴らしてみようと言ってくれる友人、知人もあらわれはじめた。
 コンサートで現代作品そのもの、有名な大家の作品でさえ、音になる機会が乏しい現状のなか、作品リストを見ると、少しずつでも、演奏機会が与えられてきていることに感謝しています。モーツアルトをもう1曲余分にレパートリーに加えることもできたところを、演奏の決して容易ではない無名の新曲をとりあげるという人たちがいるのです。
 現状、作曲家として作品が評価されるというレベルには、まだ、ほど遠いですが、モーツアルトやベートーヴェンやブラームスが演奏される機会をできるだけたくさん横取りし、彼等の音楽では出会うことのない別の音楽美、世界観、表現をもった音楽を、多くの人に聴く機会をもってもらえるよう作曲活動を続けていきます。

1999年8月8日 

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