音楽に使われる音、あるいは調性をはじめとした音の組み合わせ方への感覚、感受性、把握方法が、作曲者、演奏家、聴く人の間で共有されているとき、感情表現や特定の意味、イメージを、ちょうどある種の言語のように、音楽によって伝達することが出来ます。
言語において言葉の意味についてお互いが共通の理解をもっていることが、より高い精度の伝達を可能とするのと同様、音楽においても、音やその組み合わせの意味するものについて、お互いに共通した感覚と理解をもっていることは、より確実なコミュニケーションが成立する上で重要な要素になります。
「伝統的調性感」とは何なのか
「伝統的長調短調の調性感」は、西洋音楽の圧倒的な普及により、事実上、世界中の多くの人が共有するものとなっています。しかし、これが唯一絶対の音楽言語というわけではありません。広義の調性や、様々な旋法は、世界中のそれぞれの音楽文化に、多様なものが存在しているのです.西洋の文化が非常な力をもっている現代、あたかも長短調の西洋音楽の「調性感」は、唯一の自然な音楽言語であるかのように受け取られているのが現状です。これは、英語の世界共通語化を上回るシェアで、西洋音楽の音楽言語が世界の共通語化したものと現状を認識することができるでしょう。
音楽は世界共通の言葉だと非常に単純に言いきってしまう人がいますが、実際はそう単純ではありません。世界各地の民族音楽を聴いても感動が伝わるではないかと例をあげる人もいますが、音楽は私達が思っている以上に古い時代から世界的に移動し交流があったためヴォキャブラリーの共有度が高く、あたかも世界共通語のように思われるのでしょう。ラテン・アメリカの音楽は数百年にわたるスペイン・ポルトガルの音楽文化とインディオなど現地の音楽さらにニグロの人々の音楽が混ざり合ってきたものだし、西洋人にも好まれるガムランは、アジアがすでに欧米列強の支配化に置かれてから発達したものです。アフリカの音楽の中でも、おそらく西洋音楽の聴衆にもわかりやすいマダガスカル島の教会音楽などは、キリスト教の布教に伴う西洋音楽との接触の結果生まれた音楽です。
西洋音楽との接触の極めて少なかった地域の音楽から、音としての面白さと感興は受け止められても、言語的な意味でのコミュニケーション(意味や感情の伝達)を、西洋音楽文化の中にある人が正しく受け取ることは、決して容易ではないということはしばしば経験することです。
音楽文化ごとに「調性感」や「旋法感覚」が様々にあり、それぞれの音楽文化の中で「共通の音楽言語」「音の意味付け」が共有されていると言えます。
それらの中で、現時点、最も広く圧倒的なシェアを獲得しているものが「西洋音楽の長調、短調の調性感」なのです。
伝統的な調性から離れ、拡大された調性から無調や特殊な音組織、音響作法、さらに非西洋音楽の影響までを音楽にとりこんだ20世紀のクラシック/近現代音楽は、その意味で、作る側にも、演じる人にも、聴く人にも、非常に幅広い音楽のヴォキャブラリーと受容の寛容さ柔軟さを要求する音楽と言えるでしょう。
例えば、アメリカの同時代の音楽作品を聴き、そこに含まれている様々な音楽的要素をもし完全に了解しようとするならば、伝統的クラシック音楽や賛美歌、ジャズ、世界中からの移民がもちこんだ音楽といった、多様な音楽文化に由来する音楽的ヴォキャブラリーの複雑な集積を受け止める豊かな音楽体験によって、「音への感覚、感受性、把握方法」の幅広い共有があることが理想になるでしょう。
現代の作曲家は、伝統的調性を越えて非常に拡大された「音楽言語」を駆使しているのに対し、多くのクラシック音楽の聴衆が、音楽受容の範囲を「伝統的調性」の範囲にとどめていることは、現代音楽の引き起こしたコミュニケーションギャップの重要な一因です。
作曲上の選択肢
この状況下、聴衆とのコミュニケーションに関わる、作曲家の選択肢は、
@伝統的調性の範囲に戻る
A多数派の聴衆とのコミュニケーションを諦め「現代音楽」のコミュニティーの中で暮らす
B先にあげた2つの方法を作品ごとに使い分ける
C伝統的調性感をもった聴衆を新しい領域に強引に引き込む強力な音楽言語をつくりあげる
といったことになるでしょう。Cを実現できれば理想ですが保守的な聴衆と演奏家を動かすことは、容易ではありません。
作曲家としては、自分と「音楽感覚」「調性感」や「それぞれの音へのイメージ」を共有している聴衆が多くいることを、希望します。自分が使う音楽言語を共有し理解してくれる聴衆がいることが、音楽のコミュニケーションには必要なのです。
ところが、その面でとても恵まれていないのが20世紀のクラシック系現代音楽といえるかもしれません。
旧ソ連のように、@の選択を強制されたものもあり、コープランドのようにBの選択肢をとり作品ごとに書き分ける例、三枝成章氏や久石譲氏のようにAから@に急転回して多数の聴衆とのコミュニケーションを最重要視する立場など、それぞれ千差万別の進路があります。
作曲をするとき、聴かせる相手がどんな調性感をもった聴衆かによって、作曲家は作曲のスタイルを使い分けてコミュニケーションを図ることが可能です。バリバリの無調音楽を書く作曲家が、テレビや教育用の音楽を書くときは、ちゃっかり調性のある音楽を書くのはこの典型です。作曲の際、どの程度、伝統的な調性感にし、どの程度そこから離れるかは、目的に合わせて技術的にコントロールできるものです。
古典派が好きな人は、古典派の和声とリズムを使ってあげると喜び、ロマン派が好きな人は、短調でメロディを聴かせると「いいね、ききやすいです」と言い、ちょっとエスニックなものが好きな人を喜ばせるには、適度に民族音楽の音階など混ぜると、結構単純に反応するなど、作曲様式=(音楽言語)と聴衆の反応には意外とダイレクトで単純な面があります。
実際の本格的作品では、様々な要素が複雑に組み合わさって、その人の伝えようとしている音楽がつくられるので、ここまで単純ではないとはいえ、音楽素材と音楽言語は聴衆を選ぶ、逆に言えば聴衆は自分の好きな音楽様式を選ぶということです。
依頼主が、モーツアルト以降の音楽は苦手ということを知っていれば、古典派の調性を使って曲を書けば、演奏しやすい理解しやすい作品として受け取ってもらえる確度は高くなります。もし、ここで、無調の曲を書いたら、次からこの人からは依頼が来ないというわけです。
そういえば、「エデンの東」という甘美な映画音楽を書いたローゼンマンという作曲家は、実は、シェーンベルクの弟子で、映画の仕事以外の作曲は全くの前衛音楽だったようです。身近な例では、池辺晋一郎氏の「大河ドラマ」の音楽とコンサート用の交響曲では作曲のスタイルが、とくに調性に関して大きく変えてあります。当然聴かせる相手の違いを考えて意図的にコントロールされているものと想像します。
これを、より多くの人とのコミュニケーションを最短距離で成立させるための「妥協」とは単純に言い切れません。作曲家は、伝統的調性感も、それを逸脱する新しい音楽感覚もどちらも自分のリアリティある音楽言語として併せ持っていることが多いのです。
調性というのは一種のヴォキャブラリーのような面があります。作曲家としては、非常に進歩的な聴衆の集まったコンサートなどで伝統的調性でも民族的音階でも無調でも幅広く受け入れてくれる聴衆を相手にしているときは非常に自由に色々な音を使いますが、相手の受容範囲が限られていると明白に解っているときには、その範囲の音楽的ヴォキャブラリーでコミュニケーションをはかるという安全策をとることが出来るわけです。
しかし、音楽のコミュニケーションの成立の第一目標を、聴衆の数、いかに多く売れるか、広く受け入れられるかというところだけに置いて、ただ、聴衆の喜びそうな音を並べてみせるだけなら、自分が音楽で何を伝えようとしていたのかを忘れてしまうことになるでしょう。
シェーンベルク以降の現代音楽は「どうせ、一般大衆にはわからない」という諦めで作曲のエリートだけがわかるような無調音楽へ走ったという面があります。
私としては、多く人にもっと20世紀の音楽に日常的に接してもらうことで、様々な音楽言語を受容できる素地をもってもらうことで、作曲家が幅広い音楽的ヴォキャブラリーを自由に使っても多数の聴衆とのコミュニケーションが成立するという状況を目標としています。
「20世紀の100名曲」などを載せたこのようなサイトを私が開いているのも、この目標への、ささやかな行動なのです。
ふだん、古典派やバロックしか聴かない人には、私の曲はとてもわかりにくいでしょうが、少なくともドビュッシーやストラヴィンスキーを普段聴いている人には、それほど理解の難しいものではないと思います。ということは、20世紀の古典的名曲を、コンサートでどんどん演奏して、聴衆が慣れてしまえば、私を含め現代の作曲家からのコミュニケーションを受け入れてくれる人たちも増えるはずと考えています。
1999年12月1日
近藤浩平