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演奏家への手紙2

レパートリーの淘汰

20世紀に入ると、世界の様々な地域、文化、価値観、音楽観を背景にした作曲がクラシック音楽の分野にも現れてきました。たとえば、20世紀前半のシェーンベルク、プーランク、アイヴス、ヴォーン=ウィリアムス、エネスコ、ヴィラ=ロボス、バルトーク、ヒンデミット、ワイルと並べてみたとき、いずれか優れている作曲家が他の作曲家の音楽を淘汰するということはありそうにないと思います。価値観の多様化、文化の多様性が音楽にもあらわれています。
 一方、文化、価値観、音楽観を共有した音楽同士の場合はより包括的で完成度の高い作品が残り、その他の音楽作品は、たとえ、作曲当時は創造的で重要な役割をもっていたとしても演奏曲目としての固有の重要度を失い淘汰されていくように思われます。
 例えば、J・S・バッハが、バロック期の先行する様々な作曲家の生み出した音楽的成果を吸収し、総合したことで、バロック初中期の音楽はレパートリーとして大きな位置を占めることがなくなってしまいました。前期古典派やミスリベチェックやディッタースドルフなどが今日、あまり演奏されなくても音楽生活上それほど大きな問題ではなくなってしまったのは、彼等の音楽の当時オリジナルで創造的内容であった表現が、結局、モーツアルトやハイドンなどに取り込まれ吸収されてしまったからでしょう。
 19世紀でもフンメル、シュポア、ラフやフォルクマン、ライネッケといった作曲家達はかなり重要な役割を当時担った創造的な仕事をしているのですが、結局、彼等が見つけ出した表現内容や音楽様式は後続する世代が取り込んで、より完成度の高い作品に包括してしまった為、彼等の音楽は日常のレパートリーから次第に消えてしまいました。
(近年は彼等の音楽の、固有の美を再発見する動きもありますが…)
ブラームスやドヴォルザークななどの音楽を注意深く聴くと、その中に、今日、演奏会曲目から消えてしまった作曲家の個性だったもの、他の当時の作曲家が年代的にも先行して作り出したアイデアなどが取り込まれて無数に積み重なっているのがわかります。例えば、チャイコフスキーやドヴォルザークの個性の一要素だと思っていたものが、先行する他の作曲家の個性や様式を取り入れたものであったり、その年代の流行だとわかって驚かされることがあります。
(1999年8月)


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