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演奏家への手紙1

様々な音楽が生まれるということ

膨大な量の古典の蓄積。バッハやハイドンなど一人の大作曲家の作品さえ聴ききれないほどのクラシック。過去にこれだけ多くのすばらしい音楽作品が残されていても、作曲技量の上で完璧ともいえる完成度がすでに過去の大作曲家によって達成されていても、それでもなぜ、新しい自分の音楽作品を多くの人達が作りつづけるのか。
 音楽作品というものは、固有の文化的立場、価値観の表明。その作曲家が、その時間的、地理的、社会的位置にあって持つに至った文化上の価値観、美意識といったものの表現であるからだと思います。ある文化、価値観、美意識を代表した音楽は、他の立場の音楽で代用することは決してできないと私は考えます。
 たとえば、グラナドスやグリーグが、ベートーヴェンやショパンほどの大作曲家ほどの大作曲家ではないのはまず確かだとしても、彼等の音楽には、ベートーヴェンやショパンを何百回聴いても見つけ出さない別のものを含んでいるから、かけがえのない音楽だと言えるのだと思うのです。
 私が作曲をするのは、私が音楽に求める価値観、美意識、感情といったもの、私の立場、信条、文化的基盤といったものが、過去の作曲家の誰とも同一ではないからです。モーツアルトやベートーヴェンなど過去の作曲家の音楽を幾ら聴いても見出すことのできないもの。私が音楽に求めるもので、これまでの音楽に見出すことのできないものがある限り新しい作曲をする意味があります。過去のどんな大作曲家も、現代に生きる私の感情や美意識を完全には代弁してくれないのです。なぜなら、一人として同じ人間がいないように、音楽は一人一人異なっているのです。
 世の中には、モーツアルトやバッハの音楽さえあれば満足で、もう他の音楽は聴きたくないというような極端な人もいるわけですが、こういう人は、きっと、モーツアルトやバッハの時代の音楽にはなかったものを音楽に期待したことが全くないか、あるいは、モーツアルトやバッハの音楽に見出すことのできる音楽的感情や価値観、美意識、問題意識の部分だけで音楽を聴いているからでしょう。
(1999年8月)

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