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日本における20世紀音楽評価の視野/近現代イギリス音楽への評価を中心に

  少し古い資料だが、1983年音楽芸術1月号付録として発行された「20世紀の音楽作品50」というものが手元にある。今世紀の音楽作品から最も重要な名作50曲を、諸井誠、上浪渡、武田明倫、船山隆という非常に影響力のある4氏が協議により選択したもので、日本の音楽関係者の20世紀音楽への評価のいわば標準的価値判断をかなり忠実に映し出しているように思われる。
 さて、この50曲の中に選ばれたイギリスの作品はただ1曲、ブリテンの「ピーター・クライムズ」のみである。50曲となれば、極めて影響力のある重要な作品を選ぶのみとなるのだが、その選定結果を見てみよう。一部の作曲家は複数の作品が選ばれている。ドビュッシー3、アイヴス3、シェーンベルク3、バルトーク3、ストラヴィンスキー4、ヴェーべルン3、ベルク3、メシアン2、リゲティ2、ブーレーズ2、シュトックハウゼン2という結果は興味深い。1曲選ばれている作曲家は、サティ、ラヴェル、ヴァレーズ、プロコフィエフ、オネゲル、オルフ、ヒンデミット、ダラピッコラ、ジョリヴェ、ショスタコーヴィッチ、ケージ、ルトスワフスキ、ツィンマーマン、クセナキス、ノーノ、ベリオ、ヘンツェ、クラム、ペンデレツキ、ライヒである。
50曲の選定経過が座談会という形でまとめられている。選考過程で名前が登場する他の作曲家は、ライリー,P.M.デイヴィス、アール・ブラウン、フェルドマン、ラモンテ・ヤング、ブソッティ、クロボカール、ミルトン・バビット、ユン・イサン、コープランド、パーチ、ナンカロウ、エリオット・カーター、ウーリネン、ピストン、ホリガー、ベン・ジョンストン、ラッグルス、ガーシュウイン、プーランク、ミヨー、コダーイ、カバレフスキー、アイスラー、ヴァイルである。
 ここに名前の出なかった作曲家を何人かあげてみよう。
ヴィラ=ロボス、ヒナステラ、ブゾーニ、オアナ、カーゲル、ファリャ、レスピーギ、マルティヌー、ヤナーチェク、シマノフスキ、シベリウス、ルー・ハリソン、シチェドリン、シュニトケ、ニールセン、エネスコ、マルタン、デュティーユ、テオドラキス、コルンゴルド、スクリャービン、カウエル、レーガー、R.シュトラウス、フローラン・シュミット、バーバー、ハチャトリアン、ブロッホ、ラフマニノフ、W.シューマン、チャべス、レブエルタス、スカルソープといったところが目立つ所だろうか。
英国の作曲家は、ブリテンのほかP.M.デイヴィスが話題にのぼるのみで、ヴォーン=ウィリアムス、ウォルトン、ホルスト、ディーリアス、フィンジ、バックス、ティペットもに名前は出てこない。
 さて、この4人の座談会において、話題が英国に及ぶ部分がある。少し長くなるが引用する。
諸井:現在の数少ないオペラの傑作の作者の一人だということでもあるけれども、船山さんからブリテンの話がでたところで、ついでにそのブリテンの方へ話をもっていきましょうか。《ピーター・クライムズ》でブリテンというのが集約されちゃうものでしょうか。
船山:79年にコヴェントガーデン来日公演でやりましたよね。やっぱり劇としてみごとな展開でした。《カーリュ―・リヴァ―》なども日本の能と現代音楽の語法をミックスした作品として重要だけれども、やっぱり《ピーター・クライムズ》の方が一枚上の作品なんじゃないでしょうか。
上浪:スケールとしてはね。だから、ピーター・クライムズの場合は、前述のヘンツェと同じように、オペラという概念で書かれた新しいオペラでしょうね。
武田:そういった意味ではヘンツェなどとわりあいと似ているところがある。
諸井:英国の作曲家が非常に数が少ないということもあるんでしょうけれども、われわれは曲としては入れなかったけれども、名前を挙げた作曲家にピーター・マックスウェル=デイヴィスという作曲家がいますが・・・。
武田:イギリスでは現在トップの地位にある作曲家だし、イギリスのオーケストラが来ると必ずやる。
諸井:だからといって、ブリテン級におもしろいかというと、どうももうひとつ・・・・イギリスというのは、20世紀以前にも、ロマン派、古典派を通じてあまり作曲家を輩出する国じゃなかったですね。
船山:どちらかというと穏当な作風で、大陸の影響をいみごとに受けとめて、まとまりのいい作品になるという・・・ブリテンもそういうタイプの作家ではあるけれども、少しスケールが大きいですね。
上浪:英国というのはおもしろい国で、演奏水準の非常に高いところですよね。現代音楽に限っても、ロンドン・シンフォニエッタなんていう、シェーンベルクなんかやらせると、ものすごくうまい団体があるけれども・・・・・。
これは「音楽芸術」の1983年付録であり、20世紀の1970年頃までの作品からわずか50曲を絞り込むという特殊な状況での座談会であるが、ガーシュインを選ばず、ヤナーチェクにも話題が及ばず中南米に至っては地域への言及さえない。座談会の終わり近く、諸井氏の「ゾルターン・コダーイなんかもわれわれが省いた中に入るのだけれども、このあたり一連の課題を残している感じだな。」、武田氏の「いわゆる20世紀の音楽といっても、いままで我々の近しかったものというのは、みんな大作曲家の名曲だった。そうじゃないところに最近光があたってきている。そういうことでアイスラーやヴァイルなんかもやはり再評価の機運が上がっている。あういはそれとともにヒンデミットなんかの見方も変わってくるかもしれない」という投げかけがある

 さて、これから約10年後、1992年に刊行された「クラシック音楽の20世紀第1巻作曲の20世紀(1)」および「クラシック音楽の20世紀第2巻作曲の20世紀(2)」(長木誠司監修、音楽の友社刊)になると、もちろん50曲を選ぶというのとより多くの作曲家に言及していくのとでは大きくスタンスが違うのだが、さきの座談会を締めくくる投げかけがはっきりと引き継がれ具体化しているように思われる。言及さえされていなかった作曲家で、この2巻で2ページという大きなスペースを与えられた作曲家の名前を挙げるだけで状況の変化が見えてくる。
ブゾーニ、スクリャービン、モソロフ、ルリエー、ロスラヴェッツ、レーガー、ハウアー、ディーリアス、プフィッツナー、ルーセル、ヴェレス、シュレーカー、ツェムリンスキー、フランツ・シュミット、シェック、アンタイル、コルンゴルト、ハーバ、シュテファン・ヴォルぺ、シマノフスキ、ヤナーチェク、クシェネック、クルターク、カーゲル、グラス、シュニトケ、グバイドゥーリナ、ペルト、ラッヘンマン、リームといった名前。
19世紀末から20世紀のはじめにかけてのいわば数多くのミッシングリンクが再評価されつつある状況が見えてくる。
マーラー、シェーンベルク、プロコフィエフ、ストラヴィンスキーというようなビッグネームの間にいる人達の仕事が詳細に検証されつつある。
この本にも各巻冒頭に対談がある。第1巻は大野和士氏と長木誠司氏によるもので、ポスト・マーラーから戦争と音楽、ブゾーニへと話題は進む。ツェムリンスキー、ショスタコヴィチ、プロコフィエフ、シュレーカー、フランツ・シュミット、レーガー、シマノフスキ、スクリャービン、ブリテンなどがマーラーを中心軸に言及される。第2巻は、細川俊夫氏と長木誠司氏の対談。「ダルムシュタットの周辺」というところで、リーム、ラッヘンマン、ファニホウ、フェルドマンといったところから話が始まる。つづいて「セリーとセリー批判」から「オペラと電子音楽をめぐって」という話題でブーレーズからリゲティ、ノーノ、ベリオ、フーバー、ホリガーからシェルシ、リーム、ホリガー、ツェンダー、ラッヘンマンといったところに言及がおよぶ。対談の後半は、東洋の作曲家としてユン・イサン、カン・スキタン・ドゥン、ダオ、ヨーロッパとロシアからはマデルナ、ドナトーニ、ルカ・フランチェスカーニ、ジュセッペ・ジュリアーノ、パブロ、ヌネス、マグヌス・リンドベイ、サーリアホ、ぺッティション、カーゲル、ホリガー、フーバー、クルターク、エレーナ・ファルソワ、アメリカ音楽に移ってフェルドマンとケージに話が及ぶ。まとめは、ラッヘンマン、フーバー、ブーレーズ、リゲティ、ケージに収斂する。
1、2巻をあわせて対談で言及されるイギリスの作曲家は、ブリテンとファニホウのみである。
また、ラテン・アメリカ諸国の作曲家への言及はない。(アルゼンチン出身カーゲルは事実上、ドイツで活動する作曲家だ。)ブリテンは、「マーラーのメンタルな面」を「継承」する存在としてあげられている。

 イギリス音楽は、ドイツ、オーストリア、フランス、ロシア、イタリアの音楽に比べ、一般的なクラシック演奏会での演奏頻度は低い。
エルガーでさえ、実際には「愛のあいさつ」や「威風堂々」などが広く親しまれているのであって、交響曲や協奏曲や合唱作品が日常的レパートリーとして実演が頻繁に聴かれているというわけではない。ヴォーン=ウィリアムスの交響曲でさえ、滅多に実演に接する機会はない。ブリテンのオペラ「ピーター・クライムズ」の日本国内での上演頻度を考えればイギリス近代音楽の、クラシック音楽のレパートリーにおけるイギリス音楽の位置がわかるだろう。
ホルストは「惑星」が、いわば「誤解された」普及を見せているが、20世紀の大作曲家として例えばシェーンベルク、ベルク、バルトーク、ヒンデミット、ショスタコーヴィチ、オネゲル、プーランクのようには、深く関心をもたれているとは思えない。
「イギリスには大作曲家がいない」とまで言う人がいるほどイギリス音楽への評価は実際、低いのだろうか。
日本の音楽関係者のイギリス音楽への評価と受容の実情を、2つの実例をとって見てみたのであるが、相対的にはまだ関心も評価も低い位置にあるというのが実情のようだ。ブリテンへの評価は高いが、そのわりにレパートリーに入っている作品が限られている。
もちろん、これはイギリス音楽だから演奏機会が乏しいということよりも、20世紀音楽全体の演奏頻度が不当に低いということかもしれない。シェーンベルク、ヒンデミット、ミヨー、マルチヌーの主要作品さえ演奏会ではなかなかお目にかからない。ドイツやイタリアの音楽でも演奏会場を占拠しているのは18〜19世紀の音楽だ。ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、バルトークでさえ、頻繁に演奏されているのはごく一部分の作品にすぎない。

 先の2例は、とくに近現代音楽に深く関わっている人たちの例だったので、より広く一般のクラシック音楽界におけるイギリス音楽への位置づけを見てみよう。「音楽現代」1999年1月号、41人が選んだ「20世紀の音楽家100人」という特集がある。100人とは演奏家も含むので作曲家についてはそれぞれ約20人をあげているようになっている。
音楽評論家達の20世紀音楽評価
を参照。

ブリテンを選んでいる評論家は41人中26人におよぶ。ヴォーン=ウィリアムスは3人、エルガーが3人、ディーリアスは2人、ティペットとアンドリュー・ロイド・ウェ―バー、ポール・マッカトニーを選んだ人が各1人づつという結果である。ブリテンの音楽がイギリスの作曲家の中で例外的なほど日本の音楽評論家から高く評価されていることがわかる。
ヴォーン=ウィリアムスとエルガーが各3となり、ブリテンとの差がかなり大きい。
2000年7月28日

近藤浩平

参照してほしい項目:
音楽評論家達の20世紀音楽評価
20世紀の100名曲
ホルスト
ヴォーン=ウィリアムス
エイトール・ヴィラ=ロボス


イギリス音楽評価の現状についての雑感(過去のBBSへの投稿から再録)
 ホルストについては、矢代秋雄が「おおざっぱ」と一言で片付けています。
ドイツやフランスおよび日本の作曲技術評価は書法密度と、緊張感の持続、統一的な構築感を基本的な価値観としていると思われます。また音楽の表現力の力をパトスや感情表現の発露の密度から見ているようです。
モチーフや主題など限られた素材をいかに複雑に展開し、一つの中心をもった構築的音楽に構成するかというソナタ的形式感も、評価基準として厳然とあるように思います。こういう価値観の究極的洗練は新ヴィーン楽派やブーレーズなどに例が見ることができます。

 さて、イギリス音楽ですが、ヴォーン=ウィリアムスとホルストの思想の基盤には、ウィリアム・モリスの「アーツ&クラフツムーブメント」があります。音楽においては民謡、民俗音楽などアノニマスな音楽への評価、美術においては民芸、生活用品など芸術的表現物ではないものの美の再評価につながった運動です。
日本へは、柳宗悦の「民芸運動」という形をとって影響を与えたムーブメントです。「民芸」の言う無名の職人の作り出す美、また日常生活の美、日常の神秘、共同体意識といったものと、ホルスト等の音楽思想は近いものなのです。
ということは、河井寛次郎や棟方志功にも近い価値観か。
 ドイツ・ロマン派音楽やその後の表現主義の徹底した個人の感情表現と意志的な構築の音楽とは、そもそもの価値基準が違うのです。イギリス近代の彼等は、個人の感情表現や緊張感を越えた、神秘的で日常的な共同体意識の音楽を目標にしていたのです。
 ワーグナーやベートーヴェンのような個人的表現の押しの強さをそもそも目指していないといえます。
イギリス音楽の中で、ブラームス指向のエルガーや、ベルクやショスタコーヴィチとの関わりの深いブリテン、ヒンデミットや6人組と関わりの深いウォルトン、ベルリンやパリの世紀末音楽とグリーグの間の不思議な橋渡しのディーリアスといったところが、ドイツ・フランス音楽の価値観からは比較的評価しやすい作曲家ということになりますね。
 あと蛇足ですが、ヴォーン=ウイリアムス、ホルスト等の民謡研究、民俗音楽への評価は、アメリカの音楽学に影響を与え、アメリカポピュラー音楽の
「フォークソング・リバイバル」までつながっています。
Seeger.htm参照

英国音楽をとても愛好しながらあえて、なるべく辛口にコメントをするなら。
イギリス音楽は、19世紀にはメンデルスゾーン、ブラームスの音楽様式の影響が強く、このことがパリ―やスタンフォードなどを、音楽史上の影響力という点で、いわばブルッフやライネッケに準ずるような佳曲を書いた作曲家達という立場にとどめているのは確かだと思います。
 しかしエルガーは稀有なちょっと奇跡のような存在だと思います。
作曲のスタイルとしてはいわばドイツ音楽の亜流として飲みこまれかねない路線をとりながら、いわば本家の大作曲家(ブラームスやメンデルスゾーン、シューマンやR.シュトラウス)の音楽に匹敵するクオリティの作品を確かな個性をもって書いた。とくに、「ゲロンティウスの夢」はこのジャンルの作品として、最高の作品の一つ、しかも19世紀の大規模声楽曲、合唱音楽の成果の集約のようなものとなっていると思います。いわばロシアにおけるラフマニノフのような存在でしょうか。

 19世紀末から20世紀初頭は、ご多分にもれずイギリスにもワーグナー熱があったのですが、ホルストは一時期、最も重症だったようです。フランスでラヴェルに学んだヴォーン=ウィリアムスなどがフランス音楽の動向を持ちこみ、さらにセシル・シャープ等の民謡研究や、新しい音楽と受け取られたシベリウスの音楽の影響が、ワーグナー熱をさまし、イギリスの20世紀音楽の独自の方向性が明らかになってくるようです。

 イギリス音楽が独自のありかたを鮮明にし海外の特定の作曲家の直接的影響をあらわにしなくなってくるのはやっと1920年頃でしょうか。
 ホルストの「惑星」にはシェーンベルクとストラヴィンスキーを聴いた衝撃の余韻があきらかですが、1920年台あたりから、大陸の特定の作曲家や作品の影響を指摘しにくくなります。
 ヴォーン=ウィリアムスも交響曲3番が1921年の作品。ウォルトンの華々しい作品群も1920年台から。この時期、イギリス音楽は各国に比較しても相対的にかなり進歩的だったのではないかと思います。
 その後、1930〜40年台、バルトークやストラヴィンスキーがいわゆる新古典主義といわれる方向へ向かった時期はイギリス音楽もこの作曲界の動向にかなり近いところを歩んでいるようです。
 1950年代、無調、12音、セリー音楽を世界の作曲家が競って採用しはじめた頃から再びイギリスの作曲が、大陸の現代音楽界から孤立していくように見えます。
 しかし、P.M.デイヴィス等マンチェスター楽派の1960年代の作品になるとシアターピース的要素や多様式的なものも多く、いわばセリー音楽とも関わりつつその後の現代音楽の動向へ直接進んだような状況に思えます。
 その後は、イギリスのポピュラー音楽、ブリティッシュ・ロックが世界に広がり、これらとの関わりもイギリス現代音楽に独自の立場と国際的影響力をもたらしていますね。

 ところで、20世紀前半、イギリス近代の作曲家の一種の穏健さ、バランス感覚は、聴衆・社会との関係を保つ面でプラスだった一方で、作曲技法上の徹底を抑制し、作曲家の大胆さにストップをかけたように見えます。

 イギリスは、音楽学などで、西洋芸術音楽至上主義の進化論的音楽観から脱し、いわば文化相対主義的視点をもっていた人が20世紀のはやい時期から影響力をもっていたということも、イギリス「現代音楽」に、独特の歩みをもたらした要因かもしれません。

日本の現代音楽作曲界の視線。
ドビュッシー、ストラヴィンスキー>メシアン、デュティーユ のフランス方面
ベルク、ヴェーベルン、リーム、フーバー、ラッヘンマンなどドイツ方面
ケージ、フェルドマン、ライヒなどアメリカ実験音楽方面
バルトーク、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、シュニトケ、グバイドゥーリナなど東欧から旧ソ連、ロシア方面
ベリオ、ノーノからシェルシなどイタリア方面
ユン・イサン(実際は在ドイツが長かった)等アジア方向
には目を向けている方がそれぞれおられて情報が入る一方、
イギリス音楽やラテン・アメリカの音楽の動向に関心をもった作曲家や論客が日本の現代音楽・作曲界にあまりにも欠けていたように思います。 
 ところで、ブーレーズがヴォーン=ウィリアムス、ホルストやフィンジあるいはレブエルタス、ヴィラ=ロボスなどを振ると、どうなるんでしょうね?アナリーゼしても価値が説明しずらい音楽に是非、取り組んで欲しいところです。
またヘンツェやベルクが上手いドイツ系の指揮者ならきっとブリテンを振っても不思議はないが・・・ヴォーン=ウィリアムスの「牛追いヒュ―」や「天路歴程」を取り上げることは期待しにくいでしょうねえ。
ヴォーン=ウィリアムスとエルガーが各3となり、ブリテンとの差がかなり大きい。
2000年7月28日
近藤浩平

参照してほしい項目:
音楽評論家達の20世紀音楽評価
20世紀の100名曲
ホルスト
ヴォーン=ウィリアムス
エイトール・ヴィラ=ロボス