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バルトーク,ベラ
Bela,Bartok 
(1881−1945ハンガリー〜アメリカ))

西欧近代的芸術作品の古典的完成度という伝統的価値観を徹底して追求しつつ、その構成要素となる音素材と音楽形式モデルの置き換えを、音組織への学究的探求により極めて意識的に行った作曲家と位置付けられる。
 同時代の作曲家の中で、使用する音素材や音組織、形式モデルにおいては、かなり先進的な立場ではあったが、バルトークの音楽観の基本は徹頭徹尾、クラシック音楽の古典的価値観に基づいている。
 バルトークの作品のクラシック音楽作品としての古典的完成度は、既存のクラシック音楽の世界の中で、広く認められ、高く評価されている。伝統的クラシック音楽教育の場で、バルトークの作品が優れた作曲模範として、演奏のレパートリーとして、また教材として非常に高く評価されているのはこの為である。
 民俗音楽からの音素材、あるいは20世紀前半に使われはじめた新しい音素材を駆使していること、18−19世紀の音楽形式モデル(交響曲などの既存の形式モデル)をそのままでは使わず、常に再構築したオリジナルな形式をつくりあげていることから、同時代の多くの作曲家と比較しても、新しい20世紀音楽語法の開拓という面で最も先を進んでいた作曲家ではあるが、バルトークの音楽的価値観は、バッハ、ハイドン、ベートーヴェン、ブラームスと続くクラシック音楽の古典的価値観に何ら反するものではない。
 バルトークが用いる音素材に耳が馴染みさえすれば、西洋芸術音楽の伝統的価値観をもった人でも、多少の好悪の差はあれ、その音楽の価値を評価することができる。バルトークの音楽が、クラシック音楽の伝統的演奏家、演奏媒体、聴衆に受け入れられ、クラシック音楽の「古典的名曲」という形態で受容されるのは、彼の伝統的価値観に大きな理由がある。

 バルトークによる民俗音楽の研究、非西洋の音楽への関心について語る時、常に「音素材」「音組織」「音楽構造」といった語彙が登場してくる。バルトークは、こうして見い出した音素材や音組織を、構成要素や構成原理として独自の語法に再構築した。
 高い完成度をもった統一体としての西洋近代芸術音楽作品の、従来の構成要素や構成原理であった調性組織や、三度構成和音、ソナタといったものを、バルトークは、新たに構築した音素材と音組織で置換えることで、古典的完成度と秩序をもった音楽作品という形態を将来性のあるものとして維持発展させようとしたのだ。
「機能転移」「黄金分割」、様々な音階構成等、バルトークの音楽語法として知られるものは多い。これらは、長年の使用で疲弊した従来の調性や形式が担っていた音楽的役割を代わって担うものとして、”置換え”のために開発されたものだ。
バルトークが目指したものは、シェーンベルクがドイツ、オーストリア音楽の”優位”を延命しようと「12音による作曲法」を開発したことと背景は共通している。

 18−19世紀の西洋芸術音楽の支配的音楽語法であった調性音楽から、どこまで離れて無調性や他の音組織に進んでいるのかが前衛性を計る尺度の一つであった20世紀前半において、新ヴィーン楽派につぐ前衛としてバルトークや先鋭的多調実験時代のミヨーが位置づけられていた。今日、この尺度の意味が失われてくるに従い、バルトークは本当に民俗音楽、非西洋音楽の価値観、文化を背景とした、20世紀における”世界音楽”化の先頭を進む最前衛であったのかということについては疑問となってきた。
 18−19世紀のドイツ、オーストリア音楽の芸術音楽の価値観や表現内容、音感覚、時間感覚、形式観といったものから、どれだけ自由なのかという観点から見れば、例えば、ヴィラ=ロボスの最も大胆な作品の一つ「ショーロス第8番」(1925)や、レブエルタスの「ガルシア・ロルカへのオマージュ」(1939)、ホルストの「イエス賛歌」(1917)、ミヨーの「男とその欲望」(1918)、アイヴスの交響曲第4番(1910−1916)やヤナーチェクの「シンフォニエッタ」(1926)といったものと比較したとき、バルトークの「弦楽器、打楽器とチェレスタの為の音楽」(1936)はいかにも行儀のよい古典的秩序をもった”クラシック音楽名曲”に聴こえてくる。たとえ高度な多調的構成などがあっても、各声部は常に、古典的均衡をもった対位法によって統制され、一つの音楽としてのまとまりを持っている。
バルトークの音楽語法がいかに斬新であっても、過去のクラシック音楽の価値観への反発や挑戦はそこには無い。
バルトークは、18−19世紀のヨーロッパの芸術音楽を最高の位置におくドイツ・オーストリアの価値観のヒエラルキーから、本質的なところで離れることのなかった作曲家である。

 ハンガリーは、オーストリア=ハンガリー帝国の版図として、ドイツ、オーストリアの文化圏にある地域であった。都市文化は中欧のものであって、今日、バルトークやコダーイのイメージから想像するような非西洋的な音楽文化が日常を支配しているわけではない。バルトークが行った民俗音楽の探求も、中欧の都市の学者として、地方に残存するマジャールの音楽、トランシルバニア地方の音楽、さらに隣接する地域の民俗音楽を収集、研究する側の人間のスタンスに基本的に立っている。バルトーク自身の音楽的出自は18−19世紀の”クラシック音楽”であり、ハンガリーの農村の音楽の中で育ったわけではない。民俗音楽に対しては意識的にアプローチしたものである。
ヴィラ=ロボスが「民俗音楽は私だ」と語り、レブエルタスが「なぜ、ぼくが登山靴をはいて、民謡を探しに山へ登らなくちゃいけないんだい?メキシコ音楽の精神なら、ぼくはこの身体の奥深くに持っているんだからね・・・・・」と語っているのとは対照的だ。
*CD「エンリケ・バティス・メキシコの音楽U」CRCB−73解説 濱田滋郎 参照

 バルトークの民俗音楽への探求は、今世紀初頭の東欧で大きな潮流であった民族主義を出発点としている。しかし、当時の”民族音楽学”には、西洋人の視点から、「世界の諸民族」の”未発達”な音楽を、”高度に発達した西洋音楽”から文化進化論的な序列で観察するという考え方がまだ強く残っていた。
*注 「はじめての世界音楽」、塚田健一 音楽之友社刊1999年 序章を参照 
 民俗音楽の研究から出発した音素材、音組織への探求の成果を、バルトークは、西洋的クラシック音楽作品を作曲する材料として徹底的に活用しようとした。 民俗音楽を西洋近代的手法で分析し、様々な音素材や構造モデルといったものに分解して利用することで、西洋近代芸術としての完成度、統一性を追求した高度で完璧なクラシック音楽作品を目標としたバルトークの作曲の時代背景には、”未発達な民俗的音素材”から”高度なクラシック音楽”を発展させようという文化進化論的な考え方が見え隠れすることは否定できない。

 本質的なところでの西洋近代芸術的価値観への固執にも関わらず、バルトークは、極めて理知的な態度で、その前の世代(19世紀)の調性音楽の因習的な語法を回避し、独自の語法で置き換え、20世紀前半の音楽様式と作曲技法の変革の中で、最も先進的な開拓者としての位置を保っている。音楽観、文化的背景といった視点から見てバルトークよりも西欧クラシック音楽の中心から離れた位置にある多くの作曲家が、従来の調性音楽の音楽語法を排除することに特別な関心を抱かなかったためか、作品そのものの中では19世紀調性音楽の音素材や作曲技法をおおらかに許容しているのとは対照的である。
 音素材、音組織と、新たな音楽構造モデルへのバルトークの探求は、すでに触れたように民族主義をきっかけとした民俗音楽の研究からスタートしてはいるが、探求の対象はハンガリー国内の民俗音楽だけではなく周辺地域、さらに他の地域の音楽、さらに黄金分割への関心に見られるような抽象的”秩序”のモデル、あるいは、調性の発展的代替となりうる音組織そのものへの探求へと広がっていく。最終的には民族主義的な主張、あるいは非西欧の精神文化の表現といった思想的背景は、バルトークの音楽において大して重要なものではなくなってくる。19世紀からの調性的ロマン派音楽の閉塞感のなか、バルトークはヨーロッパ中心部のクラシック音楽の作曲家として、クラシック音楽の秩序を再構築する材料を探求したのだ。シェーンベルクは12音音楽に、それを求めたが、バルトークは、外に材料を探しに行ったのだと見ることが出来る。

 こういう観点から見ると、バルトークはクラシック音楽の作曲家の立場として、純粋に音楽的興味にもとづいて、民俗音楽から、今後の作曲の材料や着想を見つけ出そうとしていたに過ぎないのであって、それに対して「”民俗音楽”を”クラシック音楽”に発達させようとする文化進化論者」といった意地の悪い思想的見方をあてはめることには大した意味は無いというのが本当のところだろう。
バルトークは、あくまでヨーロッパのクラシック音楽中心部の西洋近代的芸術家である。違った音楽の在り方、クラシック音楽の”秩序”の世界とは異なる音楽観、世界観、価値観をひっさげてクラシック音楽の演奏メディアの場に侵入してきた異文化の音楽家ではないのだ。
それゆえにこそ、バルトークは、「伝統的クラシック音楽の世界」で、多くの演奏家、聴衆に、高く評価され、人気のある”最後の大作曲家”として、また”クラシックの古典的名曲”として受容されているのだ。 
バルトークの音楽作品は、西洋音楽的なアナリーゼによって、その質の高さを論じることが出来る。模範的高度な作曲の例として、伝統的なクラシック音楽教育機関で教材に使うこともできる。
このことも、バルトークがクラシック音楽の秩序観、音楽観にあくまで立脚した作曲家であることを証明している。*これに対し、例えばホルストの神秘主義的オスティナートやアイヴスの音楽のあるものなどは、クラシック音楽的価値観あるいは秩序観から分析すれば、作曲としてまずいもの、正しく書かれているとは言えないものであって模範例として教えられることは、まず無いだろう。

 バルトーク自身は、ここまで述べたようにあくまで西洋クラシック音楽の”大作曲家”であったにもかかわらず、20世紀における作曲の”世界音楽化”、”音素材の拡大”に決定的に大きな影響を与えた。18−19世紀の調性音楽の語法に代わる新たな作曲語法の可能性を開いたという点、オーケストラや室内楽、声楽曲などクラシック音楽のメディアによって演奏される音楽は必ずしも伝統的西洋音楽の音素材から構成されていなくても成立するということを明らかにしたことなど、バルトークが20世紀の音楽に及ぼしたインパクトは計り知れない。
 欧米のクラシック音楽の作曲家には、調性音楽と無調音楽の間の無限の選択肢を発見させ、慣用的音楽様式の習得というものに終わらない「音楽的秩序を生み出す方法の本質的技術」を理解させ、非西洋の音素材、新しい音素材、音楽構造を楽曲の基礎的な部分にまで取り込んで扱う方法を提示し、非西洋の作曲家には、従来の伝統的西洋音楽的作曲語法とは異なる音楽語法をクラシック音楽の演奏メディアは受け入れることが可能であるということを開示した。
 バルトークの音楽の基盤が、ヨーロッパ中心部のクラシック音楽の価値観にもとづいたものであったにしても、こうした西洋、非西洋の作曲の大きな可能性を明らかにし、とくに、ドイツ、オーストリア、フランスなどクラシック音楽の中心地以外の周辺地域の作曲家や、中南米、アジアなど非西欧の作曲家の活動に大きな手がかりを与えたことは、20世紀の音楽の展開に決定的影響をもたらした。バルトークの影響の有無に関わらずクラシック音楽における”世界化”は進行しただろうが、世界の多くの作曲家に、バルトークの様式の影響は非常に広範で深いところに及んでいる。

 バルトークの音楽が、クラシック音楽の日常的レパートリーとなり、さらには「ミクロコスモス」「子供のために」といった教材が音楽教育の場にまで普及したことによる、演奏家と聴衆の受容許容度の拡大も、20世紀音楽に巨大な影響をもたらしつづけている。
とくに、音楽教育の場におけるバルトークの影響力は計り知れない。教育の場における初期の”刷り込み”ほど永続的な影響を及ぼすものはない。バルトークの音楽によって、20世紀に解放された広範な音素材を受け入れる耳と技術と感性を身につけた演奏者は、20世紀の多くの音楽を演奏し、聴衆を次第に獲得していく。
音楽教育の場に入り込んでいるバルトークとプロコフィエフという2人の作曲家の音楽が、20世紀の音楽の中でも特に広く演奏され、聴衆と演奏者から大きな支持を受けているのは偶然ではない。
バルトークの音楽に若年期に出会った多くの人は、20世紀の多くの音楽に耳を開くことができる。とくにピアノ演奏教育の場でバルトークに接した演奏者を通じての影響は大きい。クラシックのピアニストに限らず、ジャズピアニストとして活動する演奏者の音楽性にまでバルトークの影響を見出すことができる。さらに、クラシック音楽という範囲を越えて、様々なジャンルの音楽に、バルトークの間接的、直接的な影響を発見することが出来る。

1999年9月29日 近藤浩平 記

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