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イランの山旅 

8DAYS IN IRAN---1998年8月13日−20日<デマバンド5671m登頂 8日間>

8月13日、いざ、出発

 伊丹空港発8時00分発、成田空港へ9時10分着。メンバ‐合流、皆一様に曲者そうな雰囲気がある。夫婦は私達のみ(きっと、私が一番へん)。全員でリーダー含め、男性5名、女性3名。
 イラン航空に乗り込む人達は、北京経由だったので、中国拳法団?らしきグループ他、中国行き客、イランに里帰りするふうのイラン人達+日本人妻、最近の改革で観光客も増えたのか、エジプトのテロ事件で「古代文明の旅」をターゲット客をこちらに振り替えたのか、日本人団体旅行客20人くらいはいたかな。その添乗員が、いかにも手際鮮やかなベテラン、イスラム地域に詳しそうで理知的なおじさんで、浮いている私の格好を、「旅を楽しまれている」と誉めてくれた。

 成田発は14:55であったが、3時間くらいえんえん待たされた。そのうち、我慢できない子供兄弟が走り遊び出すと、つられて寄ってきた、遊びに国境無き子供達が、日・中・胡(イラン)のにわかグループを結成し、いつしか中国拳法の真似事で遊び出す。彼らも、よほど楽しかったのか、夢中に走り遊ぶその姿が、また可愛らしく微笑ましい。が、子供の楽しい遊びは必ず悲劇に終わる
 はしゃぎ過ぎて、こけたか、ぶつけたかで誰かが怪我をして泣き叫んで、楽しみは終わったのだった。いずこの子供も同じだねえ。
 さて、飛行機に乗ってからは、もうイラン、スカーフで髪を覆わねばならない。(実際は北京を過ぎるまで特に言われなかったが)日本人のスチュワーデスもチャドルの制服で、エキゾチックだ。
 機内食は、普通だったかな???

 テヘランに着く23:30の予定は、当然遅れた。入国手続きも長蛇の列でくたくた。迎えに来てくれていた、現地ツアー会社(キャラバンサーラ)から派遣されたイラン人の、日本語ガイドは、飛行場から動けずもっと待ちくたびれただろうな。
 とにかく、ホテル直行。バタンとおやすみなさい。

8月14日、テヘラン滞在日
テヘラン観光T

 テヘランのホテルはごく普通のビジネスホテル、窓からは高層ビルや、アパートメントらが立ち並ぶ。その先には、朝日に照らされる山々(アルボーズ山脈)が連なって見えている。テヘランは、その山麓に広がる高地の都市なのだ。
 テレビをつけると、日本のNHK教育、アニメ番組などが、ペルシャ語で出てきて面白い。ところが当然、登場女性はチャドル・スカーフなど被ってないのに、こんなに堂々と放送してて、いいのかいな?
 朝食バイキング(種類はあまりない)後、小型バスに乗ってテヘラン観光へ。
 イラン人のガイドは、日本語を勉強しているテヘラン大学の職員さん二人、世話役の
ハリリさん(よく気がきいて、調子がいい)とガイドのアルハームさん(男前だが、説明ちょっといいかげん)。あと運転手??さんは、日本語できません。
 まずは、緑の街路樹を抜けて、
パーレビ王宮跡博物館へ。門で車を降りて入る。カメラを持って入るのに、別料金が要ったが、中は撮影できなかった。
 2階建ての大きくない宮殿前には、イラン革命時に壊されたパーレビ元国王の銅像の、足だけが立って残されている。その足だけで、おおよそ2.5M位の高さかな。中の部屋は、豪華絢爛なヨーロッパ家具、食器などが展示され、もちろんイランを代表する、美しく繊細な模様の散りばめられた、ペルシャ絨毯が、各部屋に敷かれている。
「素敵ですね」とガイドに言ったら、「みんな税金を使われた」みたいなこと言って、喜ばれませんでした。
 この後、別の夏の宮殿、絨毯博物館?に行く。中は同様、でもこじんまりとして、上記よりは趣味もまとまっていて良かった。絨毯はイスファハ−ン製など、私達には分からない地方特有の柄があるのか、必ず生産地の地方名(イスファファーンやシラーズなど)が入っている。中庭が、特に綺麗で、裏手には山(4000Mもある!…ようには見えない)が迫り、静かな森に
囲まれて気持ち良い。

テヘラン郊外、<ダーバンドリゾート>ハイキング

 そして、昼前には郊外のダーバンドリゾートへ。ここでなんと、ハイキングをするのだ。車を降りて、多くの若い男女や、家族連れが行き交う道に沿って、登って行く。初めは舗装路で広く、道端では、パフォーマンスでおもちゃを売る人や、焼きとうもろこし等を売る人など、露店では焼き海苔のような黒い四角いぺろりんとしたものを、干したり積み重ねて売っている店が多く、目を引く!その下には、チェリーやプラムみたいな果物が計り売りされている。あれは何?ガイドさんに買ってきてもらったところ、あの正体は、甘ーくべたべたした「のし果実」?だった。
 本当に沢山の人、人、店建ち並び、まるで成田山参りか吉野山詣でのよう・・・。地道(山は岩盤)になり、だんだん狭まり、谷川沿いの森を登って行く。若者達(チャドルの女性も)が、谷川に足を浸して涼んでいたり、ラジカセで音楽(ちょっとインド歌謡曲風)ならして踊っていたり、お弁当を広げたり、茶店などで、それぞれのスタイルで、そこかしこで憩っている。
 ところで、茶店では、カバブ(肉
トマトのの串焼き)を焼く煙や臭い立ちこめ、おいしそう。中では、水煙草を吸うすうおじさんが悠然と座ってたりして、また風情がある。
 森を抜けると、夏の強い日差しがじりじりと照りつける、荒野の道をひたすら登る。我等、屈強な日本の登山家なのだ!弱音は吐けない。が、長袖、長ズボン、スカーフ巻き巻きの女性群は、辛いよなあ、現地の女性等も、そんな格好でよく登るよなあ。山頂は3千M以上あるらしいが、どこまで行くのか分からないままに登る。でも茶店は点々とあり、とうとう最後の茶店らしき所でやっと止まった。1.5〜2時間くらい歩いたかな、暑かった。
 その店で、昼食。おしゃれに色塗られ、小綺麗な感じの好い店だった。カバブの羊肉、トマトをナンに巻いて食べる。ナンと言っても、普通のナンではない。とてもデカイ。A3サイズくらいの紙のようなナンで(ナンなの?)、折り重ねて皿に積まれている。ミシン目のような点線があって、ちぎりやすくなっている。味はまあまあ。あと、多分ナツメヤシを甘く煮たのが美味しかった。
 お客は他に、若い男性の集団が休んでいて、興味深そうに私達をじろじろ眺めていたが、私には、彼等の方が妙に体を寄せ合ったりして(膝枕!したりして)いるのが気になって仕方が無い。あとで、夫が「友情深きイランの男達」と命名したように、彼等は、いたる所々で普通に手をつないだり、仲良くしているのだ。
 下りは別ルートで、荒涼とした岩盤の山肌が広がる中に、谷間の一筋にだけ緑の木々が生えそろい、その木の間に、あばら家が立ち並ぶ一帯がある。住んでいるらしい。それらを横手に見ながら、
しばらく行くと、リフト乗場で、スキーで使うペアリフトに乗って下る。 
 眼下に、首都テヘランの街並みの
広がりを眺めつつ、すれ違う登りのリフトに乗ってやって来るイラン人達、男女カップル(いいのだろうか?)を観察してしまう。男性は普通の欧米人的格好だけど、女性だけ、あの黒いチャドル姿は不自由だろうなあ。開放進むイランでは、若い女性達の不満の筆頭に挙げられるそうだから、撤廃も時間の問題かもしれない。
 長いリフトを降りると、その先はエレベーターで、びゅーんと下る。もと来た道に戻り、車でとりあえず、ホテルに戻った。

テヘラン市内散策と飲用水(お酒)、他、、、

 実はこの日金曜日は、公休日なのか、街中ほとんどの店は閉まっていて、特に見るものはないが、ホテルにいても仕方がないので、一服後、ハリリさんの案内で、ホテル周辺の散策に出かける。
 
街は、やはり閑散としていてシャッターが閉じられた店が多く、開いている店もなんか、購買欲をそそる物がない。ペルシャ語の看板は見てておもしろいけど、ホメイニ氏の看板や、戦争(多分イライラ戦争)の看板にはどう反応してよいのやら。
 しかし、街路樹は緑緑しくて、気持ちがいい。山が近いので、水が豊富にあるのだ。水飲み場があちこちあって、私達夫婦はよく飲んだ。山の水なので、水は綺麗で美味しいと、情報を得ていた…。が、先ごろテヘランでは、水道水が汚染されたらしく、ホテルのバスタブが使えないようになっていたのが、風呂好き日本人には辛かった(シャワーだけ可)。実際、どうなんでしょうねえ。普通の飲用は、ノンガスの(指定しないと、ガス入りになる)ミネラルウォーターを買って飲んだけど。
 また、イスラムの国のため、お酒は厳しくご法度。暑い最中にビールを口に出来ないのは、日本人おじさんたちは、とても辛そうだった。ビ−ルもどきの飲み物で我慢されていたが、味はよくないらしい。もどきものものがあるということは、実物もどこぞにあるに違いない、実際、お祝いの時など、あるところにはあるお酒が出てくるそうだ。
 私はもっぱら、コーラですました。変わりもの好きの夫だけは、現地で人気の、塩ヨーグルト味の不味いジュースを飲んでいた。彼だけは、ガス入り水でも喜んで飲む。
 夕食はホテルで。色んな種類の肉のカバブと、例のデカいナンと、バターライス。(他の種類の食べ物がない?出てこない!)不味くはないけど、あまりに単調で飽きる。この先も同じ様な食事が続き、日本人中には、不平が起こったのだが、実際には、もっと多種多様の家庭料理があり、興味のある方は、「ラヒミ家のHP」をおすすめ。
 

8月15日、テヘランからレイネ(登山基地村)へ
テヘラン観光U

 朝食後、今日は考古学博物館とガラス・陶器博物館へ。悠久の文明、文化を誇る元ペルシャの地には、見るべき優れた品々が多くの博物館で保管、展示され、この2つは特に必見と言えるでしょう。
 考古学博物館は、好きな人にはたまらない、すごい遺跡物がある。まずは、ガイドの
アルハーム氏が説明してくれる。「これはB.C500年デース。」「B.C3000年デース。」と調子よく、初めは「ほうほう」と、いちいち感心していたけれど、よく見たら、B.C300年だったり、古い書物はみんな、「内容は、日本の古事記と同じデース」で済まされてしまうので、途中から不信感が募ってしまった。けれど、彼の「OOデース」と言うときの顔が、とてもチャーミングなので許してあげよう。
 
ガラス・陶器博物館の建物は、持ち主がころころ代ったらしく、一時欧州の商館だったか大使館だったかで、とても素敵だった。スペイン風(といっても、こちらがご本家)中庭と、中も洗練された西洋風造りで、お洒落だったわ。展示物も、様々な豪奢なペルシャガラス、中国風陶器が、シルクロードの歴史を感じさせて懐かしく、また程よくセンスよく並べられて、一番気に入りました。
 車で市内を走っていると、活気ある
テヘランが見えてくる。路上の子供達の健全、健気な笑顔が可愛い。兄弟姉妹で仲良くしているのがよく分かる。路面電車、バスは2輌が繋がっていて、前車が男性用と後者が女性用に分かれている。子供は(男の子も)、後ろに乗っていた。

お買い物T

 テヘラン大学の近くの商店街で、大きな本屋に寄ってもらった。そこで、絵葉書、ペルシャ文字のレリーフや色紙のようなもの、書道の本を買う。夫は、写真集『Mountains of Iran』と『IRAN in the four seasins』(印刷はとても良い)を買った。
 後日、土産物屋で買うべきものをチェックする。工芸品は、みんなハンドメイドなので、味がある。
とりあえず、私用のピアスを2点、猫目石三つ三色ずつ付いた物と真鍮の輪(これはどんな細工に関わらず、量り売りされる)を買う。他の貴金属の店で、スタールビーの指輪を夫に買ってもらった(本当は、トルコ石のピアスが欲しかったんだけど…)。ここは銀細工の食器など素晴らしく、良い物が良いお値段で置いてあって、手が出ない。もちろん日本での値段よりは安いはず。
 あれこれ迷いまくる私のお買い物に、付き合い待たされたガイド他男性群、ごめんなさい。だって、女の子だもん。
 ところで、お金はすべてドルで持って行き、現地のお金には触れる機会がなかった。買い物は、
ハリリ氏が立て替えて払い、後で彼にドルを渡す。買い物の楽しみは、直接交渉にこそあるのに、言葉も通じないし、時間も無かったので、仕方なくも非常に残念だった

 昼食は、ちょっと素敵なレストラン。衣装を着けた門番が立つ、カラフルな入り口をくぐると、薄暗くも、ペルシャのムードが漂い、奥が広い。手前テーブルにはドイツ人団体客もいた。食事は、例の、カバブ(羊、牛、鳥、トマト)他、フライドポテトと山盛りのハーブ等が盛られ、一人ずつには、大盛りのバターライス(バターが添えてある、パザパサの米なので沢山食べられる)とヨーグルトがついた。
 また奥のお座敷には、若いイラン女性二人が絨毯に直接座って、品よく食べていて、彼女達愛想も良くて、可愛かった。美味しいし、良い店だ。

登山基地レイネへ向かう

 テヘランを出ても、それなりの街があり、車の交通量も多い。(ガソリンは1L=10円位、安い!当たり前か)途中で、山岳ガイドのモーセンさんが乗ってきた。彼は英語がOK。でも、気さくなイラン人とは違って寡黙な人で、初めはちょっと恐かった。デマバンドは5千Mを越すので、楽ではない。一人一人の高所経験を聞いて、チェックしている。ここでみんなの経歴が、少し明らかになる。メンバー達はさすが、曲者達と睨んだ通り、すごい経験を積んだ面々だった。
 私がキリマンジャロに登ったと言うと、
モーセン氏も登ったらしく、お互いにちょっと安心。取っ付き悪そうにみえたけど、あとでもわかるわかように、優しく責任感強い、お父さんなのだ。ちなみに、陽気なハリリ氏も同乗してくれている。
 やがて、荒涼とした
アルボースの山岳地帯になる。まだテヘラン近くの山は、冬にはスキー場になる。女性も、スキーをするらしい。「チャドル姿でするの?」と聞いたら、さすがにスカーフだけでいいらしい。夏の今は、なんとスカイダイビングをしていた!昨日のハイキングもそうだけど、このようにイランでは、スポーツやアウトドアが盛んなようだ、ちょっと意外。
 
 
途中の街で、食料調達。ここで食べた、細長い黄色のメロンがとっても美味しかった。美味しいのを選ぶ目が必要なのね。八百屋には、他にも色んな種類の瓜、メロン(見た目カボチャなのやスイカや他)の仲間、野菜果物が山積みされていて、楽しい。
 荒野は続き、ある峠を越えると、やっと
デマバンドが見えてきた!本当に富士山みたいに恰好よくそびえている。丁度、茶店や露天商も出てて、色んな車が休み、活気に満ちている。

 登山の基地となる
レイネは、そんなに大きくない集落だ。その端にある平屋の山小屋、登山者用ゲストハウスに泊った。何故か、この家にだけ囲いがあって、夕方、村の子供達が囲い越しに集まって覗きに来た。好奇心丸だしなのが、また可愛い。「おいでおいで」をしたら、少し英語のわかる、勇気ある少年一人だけ入ってきた。夫となんとなくしゃべって、しばらく彼の隣で、二人ニコニコ楽しそうにしていた。私の方は、荷物整理(村に置いていく荷物と、登山で使う、ロバが持つらしい寝袋他の大荷物と自分で持つ荷物に分ける)に追われて後、夕焼けの写真を撮るために村を、一人で散策した。達に声をかけられても、笑顔以外お互いさっぱりわかりません!
 帰ってくると、夕食だ。例のでかいナンが、焼き立てで非常に香ばしい。質素な食事だったのに、
モーセンさんの暖かい手料理は、どの食事より良かった。朝食の、トマト入りスクランブルエッグイラン風など、絶品でした。

8月16日、登山開始、アタック小屋へ

 翌朝、小さなトラック2台に、大荷物と人間が乗る。人間は、日本人リーダーY氏以下我等登山者8名、イラン人ガイド・ハリリ氏、登山ガイド・モーセン氏と、若いサリム氏の他、トラック運転手、手伝いの人、便乗する人などでギュウギュウ詰め。
 荷物は、個人の荷物他、ガモウパック(高山病用)、3日分食料(日本食と現地食がダブってた)、飲料水、煮炊き用ガス大管、テントなど、重いぞ多いぞ〜。
 
レイネを出て、エンヤコラとトラックは登り道を上がっていく。舗装路も次第になくなり、花咲く原野の中の道を揺られながら(途中、ミツバチの巣箱が置いてある)、辿りついた登山口は、ゴスファンドサーラ2,910m。デマバンドの中腹だ。
 放牧をしている1、2家族の集落かしら?柵の中に石作りのモスク(兼、住居?)以外は、トイレの建物と、ぼろいテントと廃車のバスしか見当たらなかった。他は 沢山の羊と山羊と、少しの馬、ロバ、牛、ニワトリなどが放たれている。
 そこで荷物を、ロバ3頭、馬1頭に載せている間、集落の人が私達の為に、歓迎の演奏と歌と踊りを披露してくれた。ジャージ、サンダル履いた男性達が、バグパイプみたいな、動物の胃袋の笛と太鼓に、照れ笑いで踊ってくれて、ありがとう。

 さて、ここから見上げる
デマバンドは、頂上付近にこそ雪があるものの、黒々として緩やかに両裾を広げ、日本の山のような優しげな山容だ。とても5千M峰とは感じられない。エンエンと草原帯を登って行く。
 放牧されている羊と山羊が、少女二人に率いられて降りてくる。辺りの草は、棘トゲしていて、食べられるのかしら?山のように荷物を積まれたロバ達(ビーズや鈴で飾られて可愛い、瞳がめっちゃ綺麗)が追いついて、追い越して行く。
 天気良く、日差しがきつい。スカーフが良い影を作ってくれ、土埃を防いでくれる。でも暑い。我等はゆっくりのんびり、ガイドの後を付いて登って行くばかりだ。所々ブルーポピーの赤い芥子の大輪の花が咲き、他の高山植物らしい花も咲いている。。草の無い所は、砂礫で乾燥している。乾燥に耐える姿なのね、棘トゲは。
 振りかえると、下に
レイネの集落が、その向こうに荒涼とした山並み(アルボース山脈、首都テヘラン裏山)のが続く。歩いてきた所は、うねうねと、なだらかな丘地の中だ。草も無くなって来て、ガラガラとした感じになると、直登気味に登って行く。と、大きなダム湖が見えてくる。テヘランの水瓶だ。今夜泊るアタック小屋も、もう近い。

小屋は

 白いかまぼこ型小屋の中は、小さい炊事場と、広い部屋に2段に区切る棚状の寝床がある。小屋の回りを、石レンガが積まれ囲んで、防風壁になっている。壁外に、トイレと水場がある。持ってきたテント3張を設営したが、小さいしちゃちい!4000M地点での寒さに耐えられそうにない、と感じて、女性陣と数名は、小屋の中の棚ベットの一角に寝床を確保した。
 他グループの先客は、少年隊6〜8名、中学か高校生くらいかな。小屋端の地べたに毛布で寝るようだ。彼等、こちらに興味を示しつつも、遠巻きに(お互い)見ているだけで、可愛らしく、お行儀が良い。子供達だけで来るなんて偉い!し、山が好きなんだなあ。
 夫も、中学生の頃、同士を集めて、北アルプス縦走した(ツェルトで!)事があるので
、懐かしかったか、夫だけが彼等に近づいていって、話(お互いテヘランから来た、明日登る)をし、一緒に写真を撮ってきた。
 荷物を置いたら、高所順応のために、少し更に登りに行く。小屋が4200M地点なので、2−300Mほど登っておくと、下って後が楽になるのだ。私は、高山病の気配がなく
、すこぶる快調だ!キリマンジャロの悪夢が嘘のようで嬉しい。
 でも、日本のレトルト中華丼の夕食は、美味しくなかった。夫は、人の分まで食べていたようだけど…。

 8月17日、山頂アタック

 翌朝も快晴。荒涼としたアルボースの山々が、朝日を受けて神々しい。早々に軽荷で出発だ。昨日と同じ、殺伐とした道をガイド・セリム氏に付いてひたすら登って行く。ハリリ氏は小屋で待機。後発の少年隊は、さっと追い越して行った。
 高くなるにつれ、雪田も現われ、高所感が出てくる。振りかえる山波、山襞に当たる光線が良くなる。それがどんどん変わっていく。単調と思えても、同じ景色でも、上がるほど見える物が、刻一刻として違っていく、二度と同じ場面はないのだ山、自然への畏敬の念というか、ミーハー心が舞上って、私は狂喜してしまう、アラーの神に、感謝!。が、息も上がる。
 二人組(
Y氏O女史)ペースが落ちて、モーセン氏が付いて遅れて来る。日本のつわもの登山者達も、さすが高所の影響か優しさか、「女性のペースで」と譲ってくれて、私が一番前、セリム氏のすぐ後ろで歩かせていただく。ここで、水泳トレーニング時の、規則正しい大きな呼吸を続けたのが良かった。体力はきついが、ペースの乱れなく歩くことが出来た。高山病なし、元気だ。
 山頂直下くらいで
S嬢ばて始め(腹痛)、リーダーY氏が付く。かくして、セリム氏、私、夫、男性3名で、先に頂上を目指す。休み休み登りつつ、後続が来ているのを見おろす。
 山頂も、近い。
セリム氏火山がどうのと言ってたが、やがて、白砂に所々黄色い硫黄土がまじり、霧かと思ったら、火山ガスの真っ只中に突っ込んだではないか!こんな所通らなくていいのに、呼吸苦しく、パニックして立ち往生!!夫の呼ぶ声の方に、ほうほうの体で抜け出せるまで、死ぬかと思ったゾ〜
 白い(黄色混じり)火山土と広い雪田、ひょっと登ったら、もう「山頂だ」という、「へ?」。ガスで遠くは見えないが、眼前の岩を登ったら、下に頂上の火口が見えた。やった
やったのだ!周辺のなるべく大きな岩に登って、バンザイ。「Damavand」と書いてあるに違いない?ペルシャ語の板切れを見つけてきて、手に持って記念撮影。めっちゃ元気、こんなに楽に山登りできるなら、日頃のトレーニング続けるわ〜!!と誓う。
 岩を降りると、ん?その岩にはなんと、羊の死骸2頭が贄のように掲げられ、ペルシャ文字で何か書いてある。それが何であるのか、未だ謎のまま(日本人には)、今でも残っているかもしれない。何だったんだろう?。
 S嬢も登ってきた。みんなで記念撮影をした。
リーダー山頂で、みんなの血中酸素濃度をはかってくれたら、私90%近くあって、びっくり。夫は私より低いし、調子悪そう。寒くなってきたので、下り始める。下りは、ガスのない、浅い雪田の上をスタコラ下る。
 ある程度下ると、
モーセン氏とお二方、ゆっくり登ってきた。だいぶお疲れのようだが、高所障害はない様子、登って行く。私は、浮かれ過ぎに疲れがきたのか、パタンとペースが落ちる。高山病は下ると治るはずなのに、下って病になる過ちを犯してしまった。油断して、深呼吸を忘れた報いだ。
 
S嬢もゆっくりだし、私達夫婦も遅れて、急で単調な下りと、疲れと頭痛で、休み休み下った。小屋も見えてるが、足が進まない。代りに回復した男性群がどんどん下っていく。ぼーっ見てると、登りにとても苦しそうだった男性T氏、小屋へ駆け下って行くではないか!小屋へ着いたかと思うと、引き返し登ってくるではないか!すっすごい体力。
 それで、あっという間に、私達の所に来て、そして
S嬢に温かい紅茶を届けに行く。そして荷物を持ったりとY氏を手伝う。客なのに偉いよなあ、これぞ山男、あっぱれ、日本男子だわ。それに引き換え、…。
 なんとか小屋へ辿りつくと、小屋は大勢の男性、実は軍隊でごったかえしている。私は荷物を引き上げ、夫とテントに避難、しばらく寝込む(実は、高山病の時はすぐ寝ては駄目)。遅れた二人も登頂して帰ってきた。夫はS嬢をガモウバックに入れる手伝い(空気をいれる)に借り出され、頭痛がひどくなってテントに戻ってきた。そういえば、少年隊はとっくに下っていた。
 テントは、中・小・小の3つ。小屋に残りたい人以外で分かれた。せまいテントの中、みんなで夕食のレトルト食品を食べた。夫でもさすがに小食、今にしてみれば、高所に強いはずの彼なのに、昨日食べ過ぎたせいで、酸素が胃に回りすぎて、高山病になったのだ。S嬢は、高山病というよりは、風邪のようだ(実は軽い赤痢だったのだが)。
 その頃小屋では、
モーセン氏達が食事を作っていた。O女史と味見をさせてもらったら、とっても美味しいじゃないか!「日本人は、日本食」と決めた旅行社への最大の不満となった。

 8月18日、下山、カスピ海へ

下山

 朝、ロバ達が登ってくる。私達軽装で、もと来た道をゆっくり下る。リーダーY氏、S嬢に付こうとするが、責任感強いモーセン氏が彼女の荷物を持ちながら、ロープで彼女を確保しつつ下るようだ。私は、疲れと写真撮り撮りで、歩調は遅れて行く。
 振り仰ぐ
デマバンドは青空に映えて麗しく、また荷物を積まれたロバ達もすぐ追いついて、あっという間に抜いて行っちゃった。
 やがて、
登り休憩した水飲み場には、放牧された羊達がどどどーっと、あちこちから湧いてきては、群れを成す。みごとに外人、外羊?の顔をして、その毛色多様ぶりは、壮観だ。人も彼らも水を求めて集まる訳ね。登山口ゴスファンドサーラの建物はもうすぐ下。みんな登頂に晴れ晴れとしている。 京都のK氏ハリリ氏と筆談、握手している、彼は耳が不自由ながらも、一人で参加しては次々と海外登山を楽しんでいる強者だったのだ。
 さて、下では「メロンが待っている」と言うので、名残惜しみつつも、メロンメロン目指して下った。ら、ウォーターメロン、即ちスイカだった、ちょっと、ガックリ。でもいっぱい食べた、やっぱり美味しい、味は日本と同じでも…。
 そこでは集落の子供達が集まっている。私達は、食べなかった行動食のお菓子をあげて、写真を撮らせてもらった。意志をはっきり映す視線が、無邪気さの中にもたくましさを感じさせる。ある男の子は、ゴムボールでサッカーの練習をやっていた。こんな高所で練習していたら強くなるわ、この年、ワールドカップでイランはアメリカに勝ったのだから。
 またギュウギュウのトラックに乗り、
レイネへ。置いてある荷物をとって、あわただしく出発するというのに、私は無理やりシャワーを浴びた。だって、汗臭いの嫌だもん。夫は、パッキングしきれない登山靴を、お世話になったモーセン氏に渡す。息子さんが使うそうだ、喜んでくれて嬉しい。レイネの村を下った集落で、彼は車を降りていった。下り際に、サインをしてもらった、敬虔なイスラム教徒ぶりがわかる、穏やかで優しい目、仕事の忠実さ、責任感、今回の旅で唯一の重鎮だった

カスピ海沿岸、アームドアバドへ

 さて、車はゾロアスター(拝火)教の遺跡を通り、エルブルズ(アルボース)山脈を越えてひた走る。峠を下ってくると、今までの乾燥した荒野の山並みは、少しづつ緑が充ち、道両脇は懐かしい田んぼが、稲が緑と輝いているではないか!そしてにわかに暗雲立ち込め、ジメ-っとした蒸し暑い日本の夏(梅雨時)のような空気に変わってくる
 いくつもの町を抜け、途中道に迷ったものの、無事目的地
マームドアバドへ。カスピ海の海の風、香りに満ちている、天気は悪いけど。休憩かと思って入ったモーテル風の建物が、宿泊地だった。入り口は派手な作りだが、別棟の部屋はモーテル、日本でいえば、民宿のようだった。しかし、山屋達が寝るには十分過ぎる気もする…。ベットの上、天井の大扇風機が回って、ちょっと優雅な気分。
 一休憩の後、町の観光へ。通ってきた町らと同じく、モスクはよく目立つ。町はリゾート地で、活気あり賑わっている。

お買い物U

 登山も済んだし、後は旅の土産を手に入れるのみ!お目当ての貴金属店もあったが、種類も少なくチープな物がなので、早々に引き上げる。店頭に浮き輪や、わら帽子他の籐芸品が並べられた土産物屋は、チープな物で溢れていたが、欲しい物はなかった。ふと見ると、こは海辺、今は夏、そしてイスラムの国、にしては不釣合いというか、不可解な、サンタクロースの人形がぶら下がってるではないか!いいんかいな、どうなってるの?
 
市場は奥深く、沢山商品を積み並べた八百屋、肉屋、金物屋、靴屋、服地屋雑貨屋いろいろが、ひしめき合っていた。登山前食べた美味しかった黄色の瓜メロンを、イラン人ガイド達、ハリリ氏セリム氏(テヘランまでついた来た)は、デザート用に買ってくれた。実際は、前回のメロンの方が美味しかったので、選眼が重要なのね。
 
O女史、道に積まれた袋を発見!これは何かと尋ねたら、袋を破って味見させてくれた「岩塩」だった。粉砂糖のようなさらさらさ、塩味の中に何とも言えない甘味、しかも、500g位入ってる袋が10個で1ドル(米)!!O女史買いましたよ!10個も要らないので、みんなで分けた。私は3つ程いただきました。これは良い買い物だった。赤い香辛料も買った。前に食べた店ではシソ味のような美味しい物で、同じ物の筈なのにメーカーが違うのか、味がいまいちで残念でした。  

カスピ海で泳ぐ

 今回の旅のハイライト、「カスピ海で泳ぐ」。宿泊モーテルの裏が、ビーチである。部屋から外に出て、他のイラン人家族客達が、多分バレーボールで遊んでいる横を抜けて直進すると、海だ!カスピ海だ!なんと荒れた海だ!暗雲広がり、荒波押し寄せる。「こんな所で泳げたもんじゃない」と紳士淑女は引き返すが、実際に泳いでる(というより、波に漬かっているのだが)人もいるというのに、ここまで来て、引き返せるか、「私はやるで〜!」。ああ、NZの氷河湖でも泳いだお馬鹿な女の血が騒ぐ。
 他、悪環境に強い?年配の
日本おっちゃんら3人と、変人夫、パンツ一丁orズボン一丁で、荒波に立ち向かっている。ここで、私は水着にはなれない、イスラムの国だから。黒い長袖Tシャツとズボンに、スカーフで頭から体を覆って、海中にとび入ったのだ。ザッブ〜ン!!
 もちろん、こんな馬鹿な女はイラン人にもいない(小さい女の子達は入ってたが)。こんな事して、怒られるかと心配したけどスカーフ外した時、監視員に注意されただけで、周りのイラン人は面白がっていた。海辺は、いずこの国の海水浴場と同じ雰囲気で、屋台も有り、元気な若者、子供達、歓声を上げて波と戯れ、砂で遊び、眺めるご婦人方、老夫妻、明るくもけだるく、どこかもの悲しい空気も漂うから海は不思議だ。天気のせいかな。
 仕事を忘れない
ハリリは服着たまま、私達を見守り、写真を撮ってくれる。海岸で引き馬をしている所で、私達夫妻を馬に乗せてくれた。その馬は、とても小さかったので(ポニーかな)恐くなかったし、一人ずつ乗せて走ってくれたり、2人を乗せては記念撮影、そのうち、ちゃっかりハリリ氏も乗って楽しんでいた。
 
海岸や町を歩くと(テヘランでもそうだが)、家族単位でリゾートに来て楽しんでいる姿がよく目に付く。家族連れで、娘2人同じスカートに、若ママのチャドルの下から同じ服地のドレスの裾が覗くのには、おしゃれさと、昔は母手製の服を着ていた懐かしさ、温かさを思い出し感じいってしまう。若い人も多く、これからのイランの、開かれた社会への大いなる力となっていく事でしょう。変にアメリカや日本みたいなゆがみを出さず、どうか、古き良さをも保ちながらも平穏に、改革が進められていくことを切に願うばかりである。

 8月19日、テヘランへ、帰国

 朝食のち、昨日来た道を戻り、一路テヘランを目指す。天気は変わらずどんよりとして、まただんだんと荒涼としてくる山岳部を走る。峠をこすと、あの麗しき懐かしきデマバンドよ、こんにちは。ここまでくると、雲は切れて、青空も見えてくる。道は山岳地帯の谷間を通るから、川筋の緑在るところには集落がある。道沿いにはドライブイン、飲食店が出ていて、人間の暮らしってどこも違わないなって思う。
 あるドライブインで、そこにいたおじさんが
に、「ウォタフォル、キャッスル」と対岸を指差して教えてくれた。見ると確かに立派な滝が、横に城壁らしき建物があり、写真に撮る。いずこも人も、滝や城や、美しいと感じる気持ちは同じ、笑顔で通じる心が嬉しいな。
 もうテヘラン郊外の外れくらい、「レインボートラウト」の看板立つ店で休憩、昼食。日本人にとってやっぱり魚は、おいしいねえ。それは、フライだったけど、
テーブルには日本のキューピーマヨネーズとキッコーマン醤油、これさえあれば、日本人に敵は無い!?魚にサラダにご飯にちょっとかけるだけで、沢山食べられるから、不思議だ。日本人が醤油臭い所以ね。
 旅が終わろうとして、みんな気が和み、
往年の登山人生時代を語り合う初登頂を争った前時代、山岳会華やかかりし頃、そして山の事故にも無関係ではなくも生き残った人達、現役ヒマラヤ遠征隊員のリーダーはじめ 何人死んだかわからないドクロのマーク緑山岳会員や、元南極越冬隊員、海外遠征10回以上のベテランから、事故にも障害にもめげずに立て続けに海外登山をこなす人、本当に私達なんて経験も年齢もひよっ子すぎて話しにならないけど、貴重なお話しを伺えて、お知り合いになれて、嬉しく楽しいひとときでした。

お買い物V

 さて、残り少ない時間で、皆さんお土産を買わなきゃならない。は先のドライブインで、いろんな種類の「のし果実」をGet!会社他へのお土産がそれとは、なんてチープな奴、1$もしないじゃないか。でも皆さん食べてくれたか知らないけれど、トーストの上にのせて食べると、ジャムみたいで美味しいよ。
 紳士の緑隊員
Y氏、「キャビア」をご所望。ものの本によるとイランは、キャビアの輸出国であるが、それが庶民の食卓に上がることは無いと、あったなあ…。ハリリ氏懸命に魚屋さんを探すが置いてないんだな、これが。交通渋滞のテヘラン市街に入ってようやく、どこぞで仕入れた情報の(おそらく)高級市場へ向かう。これが立派な魚屋で、なんと日本語で魚名と調理法が表示してある!きっと、日本の駐在員の奥様達がお買い物する所なんだろうな。日本語の出来る店売員もいて「かわいい」っと言われてご満悦な私。他にも八百屋や肉屋が立ち並び、こんだけの食材があったら暮らしていけるし、滞在中もっと他に食べる物、料理あってしかるべきよ!と少々憤ってしまうわ。ええーと、問題のキャビアありました。その魚屋の奥の冷蔵庫から出てきた分と、他の店からも取り寄せてきてもらった分、5〜10個位買い占めてましたな、だんなさん。
 私は郵便局と、工芸品の買える所へ行きたいの!
ハリリ氏庶民だから、あんまり店を知らないのか、或は、契約しているのか、前に行った同じ土産物屋へ連れてこられた。ええい、時間も無いし、迷いながらもなりふり構わず買ったもの、下記の通り。
 腕輪、     3つで10米$位チープな物、友人用10個くらい
 お盆?、    銀色の 幾何学模様が可愛い、大2つ、小3つ自宅用
 しゃもじ?   上記同じ  これでバターライスをすくうのか?
 テーブルクロス ペルシャンブルーが模様が綺麗
 飾り皿      
上記同じ、 S嬢が買おうとして値段を聞いてやめた所、横から「私買う!」28$か32$位
 目玉のお守り  ギリシャのお土産で貰ったのと同じのがあり
魔よけになる。同地域なのかな。
他にも欲しかったな。
 そういえば、ハリリ氏手製の絨毯も見せてもらったけど、買うならもっと良いもの欲しいよな〜、ごめんね。でも、優しき
南極越冬のK氏は買ってあげたようだ。 郵便局にも行けなくて、書いた絵葉書ハリリ氏に頼む。ちゃんと日本に届いてて、サンキューです。

 あわただしくも、
空港へ。渋滞しながらも、余裕を持って着いた。さっと搭乗手続きをしたら、ハリリさん、さようなら。長くお世話になりました。空港に着いても、きょろきょろとお買い物品を探しまくる。可愛らしく包装されたナッツの詰め合わ2セット買った。他の人も買ってました。こんなの見たかったのよ、っていう絨毯屋もあり、大いに眼福、買わなかったけどね。
 
免税店に入ると、また魅惑の品々が・・・、たまたま日本人ビジネスマンいて、「サフランですよ」と私が不思議そうに見ていたものと、その複雑な免税品の買い方を教えてくれた。日本での値段を思ったら、安い!2ビン買った。結局、サフランだけで留め置いた。

さよなら、禁欲のイラン

 飛行機に乗りこむ人は、日本人妻とカッコイイイラン人夫、ハーフの可愛い子供という図が目立ったなあ。機内はまだイラン。アルコールはない。ビールもどきもので、のどを潤しつつも、だんさんY氏、キャビアを一個開けてまわしてくれる。ふうん、これがキャビアかー。
 順調に飛行機は飛び、まずは北京へ。
これが目の毒だった。なんて、はしたなくもお下品な!悪魔の沙汰だわって思わずも思ってしまう格好の、真夏の普通の服装のミニスカート、キャミソール姿の女の子達が乗りこんでくる。半そで短パン姿さえ、目のやり場に困るほど私のお目目は、禁欲のイスラムの国に慣れていた。「慣れ」って、恐いよなあ。
 いよいよ、成田ご到着。具合の悪かったS嬢と腹の調子悪かった夫、検査室直行。東京組は、いそいそと、寿司&ビール飲みへ。私達大阪組は、不屈の京都K氏とお昼をご一緒して、関空へ向かった。ああ、長かったー。終わり。
 
 といきたい所だが、後日保険所から連絡が…。検査の結果、S嬢から赤痢菌が発見されたそうな。一緒に検査(検便)した夫は、大丈夫だったのでOKだが、ツアー客全員、強制検査の命令が下り、保険所に所に検便持って出頭する羽目になりました。シロで良かった。その頃、我等リ-ダーは、すでにお山の人だったはず、どうされたのかな〜。
 それから、半年後東京に
行ったついでに、S嬢K氏Y氏のお3方とはお会いできて、楽しかったわ。ツアーでもせっかく縁あってご一緒したのだから、出来るだけ末永く、年賀状だけでもお付き合いしたいのに、縁薄れて行く人は、寂しいな…。

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