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演奏家への手紙4

価値観の表明としての個性的
プログラミング

演奏者の曲目選択という表現手段の影響力は非常に大きいものです。
ある音楽を演奏しないということは、その背景にある文化、価値観、美意識の重要性を認めないということです。18−19世紀のドイツ・オーストリア音楽ばかりでプログラムを埋め尽くすということは、例えば、20世紀ラテンアメリカの文化は、ドイツ・オーストリアの文化と比べたとき、無視できる程度の重要性しかないと表明しているのと結果的には同じです。チャイコフスキーの名曲ばかりを演奏し、例えばプロコフィエフはソ連時代の平明な作品しかとりあげない演奏者は、本人は何の悪意もなくとも、結果的にはスターリンの音楽政策と同じことをしているのです。
 シューマンやショパンの時代、演奏曲目のほとんどは同時代の音楽だったといいます。バッハの時代にはレパートリーはほとんど全て同時代のものであったといいます。
現代、クラシック音楽の演奏レパートリーが、はるか過去の作品で埋め尽くされ、同時代の表現活動としてのあり方が希薄になってしまっているのには、3つの原因があるでしょう。
 1つは、クラシック系の作曲のいわゆる主流を、現代の演奏者や聴衆の大多数の共感を得られないような、ある意味でアカデミックな「現代音楽」の特殊なコミュニティが占めてしまったことです。さらに、これらの現代音楽作曲家達が高く評価し推奨する20世紀音楽が、大多数の演奏家と聴衆にとって、いわゆる難しい「現代音楽」であったことです。
実際には20世紀に入っても一般聴衆にとっても共感できる音楽で、なおかつ、新しい音楽は多数あるわけですが、作曲の主流となった「こわい現代音楽」は、作曲年代が新しい音楽を演奏者や聴衆が耳にする前から避けてしまう傾向をつくってしまいました。
 もう1つは、演奏芸術の完璧主義と伝承主義です。誰もが古典を完全にマスターしようとするために、古典を一通り演奏するだけで一生かかる課題となってしまい、レパートリーが広がりません。演奏家ごとにもっと得意、不得意があっても良いだろうし、それぞれ自分の個性と重なり合う特別なレパートリーを持っていたほうが、聴く側としても変化があるし、全体として音楽の世界は豊かになると思うのです。100人の演奏家が1人の作曲家の音楽を100回演奏するよりも、100人の演奏家が100人の作曲家の音楽を演奏するほうが、音楽の文化は多様で豊かなものになるでしょう。もちろん、こうなると、先生から解釈を学んだ音楽作品だけに頼る伝承主義的レパートリー構成の範囲を逸脱するわけで、自分で演奏したい音楽を見つけ出し譜読みをし、解釈を築き上げる創造的演奏活動が演奏家に求められることになるでしょう。例えばメキシコのピアノ曲(ポンセとか)のスペシャリストがいてもいいし、チャイコフスキー、ラフマニノフよりもメトネルやグラズノフの方がその人の個性にあっている場合もあるに違いありません。
(1999年8月)

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