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演奏家への手紙5

音楽の理解

 ある時代の音楽には、それ以前の時代の音楽が遺伝子のように入り込み、継承されているので、新しい音楽を知っている人は、それに先行する古い音楽も、ある程度のレベルでおのずと理解できる場合が多いと考えられます。よほど大きな根本的音楽語法の変化がなければ、過去の音楽を私達は、大きな支障なく、音楽として受け止めることができます。 一方、古い時代の音楽のみに浸っていると、より時代を下った音楽は、未知なものにあふれていて理解しがたいものになってしまうでしょう。
 近現代の音楽を主要レパートリーとしている人で、古典派やバロック、さらにルネサンス音楽などを聴いて、まるでちんぷんかんぷんという人は、まずないでしょう。(時代様式を正しく理解した解釈や、時代背景やその時代固有の精神性を正しく受け止めるという完璧さは期待出来ないとしても)
一方、素晴らしく美しく天才的にモーツアルトを演奏することのできる音楽家が、近現代の音楽やクラシック音楽以外の様々な音楽については、まるで無理解であることはしばしばです。演奏できないというレベルどころか、音楽として鑑賞し、把握することさえ耳が拒んでしまうことさえあります。
音楽の理解は、どうも大は小を兼ねるというところがあるようで、多様な音楽に接してきた人は多様な音楽を理解できる一方、ごく限られた範囲の種類の音楽のみに囲まれて育った人は、その外にある音楽を受容することは困難なようです。
 ヨーロッパ最高の音楽的知性の持ち主が、他の文化圏の高度に発達した民族音楽について、全くとんちんかんで稚拙なコメントを残していたりするのは、この例でしょう。
(ヒンデミットも著書で、音楽的守備範囲の意外な狭さを露呈している。)
古典派音楽だけで幼少年期を純粋培養された音楽家が、その外にある音楽を大人になってから理解しようとしても、難しいことが多いようです。一方、世界中各地の音楽、クラシック音楽、現代音楽、ジャズ、ロック、ポピュラーまで幅広く、ごく若い頃から接していれば、より寛容な音楽的理解力が得られ、自分の音楽的個性、立場を、自分で発見していくことになるでしょう。
 私の経験では、バルトーク以降の近現代の作品、とくにアメリカの現代作品など(ライヒやJ.アダムス、グラス、ハリソンなど)を意外と受け入れるのは、プロレッシブ・ロックやワールドミュージックを幅広く聴いている人で、音楽的共感の許容範囲が広いようです。最も受け入れないで拒絶反応を示すのは、モーツアルトなどヴィーン古典派以外はほとんど聴かないというこちこちのクラシックファンやバロックからロマン派までの音楽以外は全く手がけようとしないヴァイオリン演奏者でした。ピアノを弾く人のうち、プロコフィエフやバルトークになじんでいるという人は、かなり許容度があるようです。映画、演劇など他のジャンルに詳しく音楽はあまり詳しくないという人は、意外に素直に受け入れ、的確な感想を聞かせてくれることがあります。非常に斬新な音楽でもパフォーマンスとして受け入れ、また、映画や演劇の中で、知らず知らずに、20世紀の音楽語法に耳慣れているからです。
  熱心な映画ファンは、フランス映画で、オーリックやミヨーなどフランス6人組の音もきいたことがあるし、東欧を舞台とする映画でヤナーチェクも聴いたことがある。日本映画で早坂、芥川、武満にもなじんでいる。さらに、ネアゴーやコリリアーノ、ナイマンといった同時代の作曲家が手がける映画音楽に接することもしばしばということで、大多数のクラシック音楽愛好者よりも彼等の耳の方が、多様な体験をしているからでしょう。
 一方、音大生や音楽教師や演奏者でさえ、音楽的視野の広がりがあわれなほど貧弱な人達にしばしば出会います。もちろん、自分の音楽活動の対象を17−19世紀のヨーロッパ芸術音楽の特定のレパートリーに絞り込むのも、非常に高い質の実現のため、専門化の一つの選択肢として、あってもかまわないわけですが、シューマンのピアノ曲を好んで弾く人に、シューマンの素晴らしいオラトリオや交響曲や、管や弦の協奏曲の話、当時の音楽状況の中での彼の立場や、影響関係のある同時代の作曲家たちの話題を持ち出すと、「へえ、シューマンはオラトリオやオペラも書いているんだ」と驚かれたときには、ずっこけました。
何十年もピアノを弾いている演奏家が、ヴィラ=ロボスやニールセンの名前すら知らない
こともあるのですからひどいものです。
(1999年8月)

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