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オーケストラの将来 P1

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1..はじめに
2.クラシック音楽の現状
3.聴衆の拡大とレパートリー、情報戦略
4.クラシックファンの保守的な耳
5.同時代のメディアとしてのオーケストラ

6.社会性、文化的重要性

1.はじめに

広がらないクラシックの聴衆層…聴衆の保守化と固定化

交響楽団の活動の大半は、18−20世紀はじめの西洋芸術音楽(クラシック音楽)を繰り返し演奏することで占められている。 世界中の様々な音楽、より同時代的感動をもたらす様々な音楽に接することができる現代において、クラシック音楽の占める位置は相対的に小さいものとなっていく。  クラシック音楽の聴衆は、非常に保守的な特別な人たち、同時代的感動から逃避して「既知の音楽」(この曲、なつかしい。)「やすらぎの音楽」(BGM化したクラシック)「貴族趣味」(雑誌「クラッシイ」の上流社会ごっこみたいな)をのみ求める人たちが残り、聴衆の層は、決して拡がっているとは言えない。 

同時代のクリエイティヴな活動の場としての弱さ

シリアスでオリジナルな創造活動を志す人たちの中で、クラシック音楽を活動の場に選ぶ人たちは、ごく一握りにすぎない。 「美術」「文学」「写真」「建築」などでは、同時代の活動の成果が常に話題となる。現代日本でも、作品が人気を呼び、展覧会が行われる作家はたくさんいる。近現代美術館も数多く存在する。「文学」でも、多くの人は同時代の作家を話題にする。芥川賞と芥川作曲賞では社会的関心の程度は雲泥の差がある。写真雑誌をみれば、無数の素晴らしい作品が毎日生まれ、同時代の有名無名の人達が作品を発表し、お互いの作品を鑑賞しあい、批評しあう状況がわかる。  音楽の多くのジャンルでも、常に新しいアーティスト、新しい音楽が出現し、聴衆を得ていく。演じる人の解釈や完成度ばかりが話題になり、新しい演目のないものは、衰弱し延命中の、発展しきった伝統芸能の爛熟した姿だ。  新しいものとの出会い、自己表現の場、同時代的共感を求める人達は、クラシック音楽の入り口から入ってこない。オーケストラの演奏会には最初から足を運ばない。 たまたま、足を運べば「美しいやすらぎ」か「仰々しい重さ」で眠くなる。結局、そういったものを求める聴衆以外は去っていく。「おけいこ」の発表、「教育的よいこの音楽」、「伝統的権威」にぶち当たって退散する不運な出会いもあるだろう。

オーケストラのこれからを考える

クラシック音楽。とくに、非常に大きなコストをもって活動が維持されるオーケストラが、今後、充分な聴衆を集め、創造的な音楽活動の場としての重要性を保ち、またコストに見合うだけの社会的重要度を認められるにはどうすればいいのか。 私は、オーケストラ音楽のこれまで生んできたレパートリーを大変、愛しているし、 音楽表現のメディアとしてのオーケストラという演奏形態は、同時代の創造活動の舞台として、まだ多くの可能性をもっていると考えている。オーケストラが将来にわたって重要な演奏メディアとして発展していくために、どう変わらなければならないのか考えてみたい
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