オーケストラの将来 P5 |
5.同時代のメディアとしてのオーケストラ |
オーケストラは、演奏メディアとして、非常に素晴らしいものなので、同時代の表現の場としても最大限に生かされるべきだと思いますが、残念ながら表現者から見ると、現実のオーケストラは、ほとんど18−20世紀前半の、ほんの一握りの欧米人作曲家の表現の場として独占されているメディアです。
ある音楽を演奏しないということは、その文化、その立場の表現を、無視することと結果的には同じことだと思います。レパートリーが、ドイツやフランスの18−19世紀の音楽だけで占められているということは、たとえば中南米やアジアやアフリカなど異なった文化、価値観から出てきた音楽の価値を、ヨーロッパ音楽よりも低くみているということと結果は同じです。
西洋が生み出したクラシック音楽のオーケストラやオペラや様々な技術、楽器は、21世紀には、世界中のあらゆる地域の、それぞれの文化、主張、美意識をバックとした表現者に開放されるべきだと考えます。
美術館は、レンブラントやゴッホやルノワールなど超有名名画の展示だけをしているわけではなく、いろいろな画家、美術団体の発表の場でもあります。県展もあれば、二科展もあれば、現代美術の新作展もあり、近代日本の洋画、日本画も、それほど不自由なく接することが出来ます。兵庫県の近代美術館に行けば、小出楢重や金山平三など地元の画家の作品にも出会えます。マチスやシャガールや、エルンストやさらに新しい時代の美術でも、多くの人に馴染みがあって百貨店の催しになるほどです。
一方、クラシック音楽の世界では、関西のオーケストラが関西の作曲家の作品を演奏することは稀だし、聴衆はプロコフィエフやストラヴィンスキー、ミヨー、ブリテンあたりの主要作品でさえ、実演に接するのはごく一部分にすぎない。普通の聴衆は、世界でどんな現存の作曲家が話題になっているかも知らない。山田耕筰に交響曲や交響詩があることも知らないし、松平頼則や早坂文雄の曲でも何十年もお蔵入り、諸井三郎や橋本国彦あたりも、ほとんどどんな音楽を書いていたのか知られていない。韓国やフィリピンやカンボジア、オセアニア、アフリカなどからも、オーケストラ曲を書くような作曲家が出てきているなど、ほとんどの聴衆は認識していない。メキシコやブラジル、アルゼンチンなどには、日本よりはるかに古い時期からクラシック音楽が入っていて、ヴィラ=ロボスやチャベスやヒナステラなど世界的に知られた大作曲家がいることも、日本の聴衆はほとんど知らない。せいぜい、ギターの小品がある程度しか知らない。
オーケストラが、西洋古典音楽の保存演奏団体から、より大きな社会的な。世界音楽的な役割を担うには、レパートリーを大きく広げ、他のジャンルの音楽家との共演などもおもいきって取り組むべきだと考えます。
閉鎖的でアカデミックな権威をバックにした、聴衆の喜ばない「現代音楽」を義務的にとりあげるというのではなく、聴衆が、新作初演にわくわくしながら、未知な音楽との出会いを期待するような状況をつくることができないでしょうか。
今のクラシック音楽ファンは「既知=好き」ですが、「未知=期待、好奇心」という聴衆を掴まなければ、保守的な聴衆と演奏家が音楽活動から創造性を奪い、オーケストラは18−19世紀ヨーロッパ音楽の相対的後退と運命を共にすることになるでしょう。