グスタフ・ホルストの音楽と思想の形成上重要なものについて様式区分を兼ね年代を追って述べてみることとする。様式区分は表1「年表」にまとめた。
この時期のホルストにとって特に重要な意味を持った音楽は、グリーグ、サリヴァンのオペラ、バッハのロ短調ミサ曲、ワーグナーであった。(注10)
ホルストの世界観・思想の形成上、重要な役割を果たすものは、既にこの時期に揃っている。ホルストはウィリアム・モリス及び社会主義者同盟ハマースミス支部、後の社会主義者協会あるいはケルムスコット・クラブ(Kelmscott Club)と関わり(注11)、ホイットマンを読み(注12)、1899年にはサンスクリットを学びはじめ、リッグ・ヴェーダ(Rig Veda)とラ−マ−ヤナ(Ramayana)の翻訳を試み始めている(注13)。
習作期からこの時期にかけてホルストの語法はワーグナーの強い影響下にある。(注14)しかしテキストにはリッグ・ヴェーダ、ラーマ−ヤナ、ホイットマンといったものが選択されている。(注15)また、この頃、ブリッジ、ハーディの文学に触れている。この2人は後にホルストと面識をもつことになる。(注16)主要作品は『神秘なラッパ手(The Mystic Trumpeter)』(ホイットマン詞)。
1903年*にヴォーン=ウィリアムス(Vaughn Williams)は民謡収集を開始しホルストもそれに参加する。
*ベラ・バルトークの民謡収集は1904年開始。ポール・グリフェス著石田一志訳『現代音楽小史』音楽の友社 昭和59年 P.62
彼らにとって民謡は解放であった。ヴォーン=ウィリアムスによれば、民謡の旋律は「小節線や拍子記号の因習に縛られないリズムを持った、純粋に旋律的考慮のみによった新しいタイプの旋律」であった。(注17)ヴォーン=ウィリアムスはホルストがこのような[旋法的旋律(modal melody)]を多用していると述べ、代表的「旋法的旋律」として単旋聖歌(plain song)(注18)と民謡(Folk-song)をあげている。和声、小節線、拍子記号から自由な、純粋な旋律線という考え方は、ヴォーン=ウィリアムスが、その『民族音楽論』でも力説するところであり、これによってホルストは半音階的和声から脱出したのである。(注19)
1908年、ホルストはアルジェリアを旅行する。ここで接した非西欧の音楽が大きな変化をもたらす。
イモージュン・ホルスト(Imogen Holst)はアルジェリア旅行の成果についてかなり詳細に論じており、ホルストが旅行中に行った採譜、直接の成果である『ベニ・モラBeni Mora Op.29 No.1』(1909〜1910)にあらわれている、同じ音高で163小節にわたって反復される旋律や、『セント・ポール組曲(St Paul's Suite)』(1912-1913)、『惑星』の中の『水星』、『どこまでも馬鹿な男(The Perfect Fool)』との関連について述べている。(注20)
この時期からホルストの音楽に特徴的な、リズミカルで断片的な旋律とオスティナートがあらわれ、様式は大きく変化する。
既に中期の様式を確立しつつあった1910年代、ホルストはストラヴィンスキーとシェーンベルクの音楽にも接している。(注21)また、1911年にMorley Collegeでパーセルの『妖精の女王』の復活上演を行っている。(注22)バード、ウィ−ルクスらのマドリガルの研究を開始したのもこの頃である。(注23)
この1910年代の代表作は『惑星』と『イエス賛歌(The Hymn of Jesus)』(1917年)であり、聖書外典をテクストとした『イエス賛歌』では、ダンスと神秘主義の結びつきが明確にあらわれる。「サンスクリットを研究したことによって彼はダンスと神秘主義的儀式との密接な関係を知っていた。」(注24)
1923年の『フーガ風序曲(A Fugal Overture)』からホルストの様式は「旋法的旋律」を多調的に自由に重ねていく多声的なものとなる。「旋法的旋律」の多声的扱いは、マドリガルの研究を始めていたホルストにとっては当然の方向であったのかもしれない。(注23)
多調的線的な様式は1920年代の音楽に広く見出される傾向であり、ホルストのこの時期における音楽様式は、新音楽(Neue Musik)の傾向に接近していると考えられる。モーザーは新音楽の指導者の一人としてホルストの名をあげている。(注25)多調的様式の例としては1925年の『3重奏曲(Terzetto)』(譜例1)が典型的である。
『エグドン・ヒース(Egdon Heath)』はホルストのそれまでの全ての活動の集成である。イモージュン・ホルストは次のように述べている。「『エグドン・ヒース』において彼の思考は、孤独(solitude)の最も遠い縁(the
farthest rim)に到達した。そして理解(understanding)に到達して、次のステップは帰還でなければならないと知った。」「これより何年も前、彼は心(mind)を数学者のそれのように明晰に保とうという意図をもって出発し、作品に『内的な感情(the
domestic emotion)』があらわれることを決して認めなかった。これは彼がそのヴィジョンに従って進むために払わなければならなかった代価であった。それは、そうするに値するものであり、それが彼を『エグドン・ヒース』へと導いた。『エグドン・ヒース』において彼は最も完全性に近づいたのである。」(注26)
『エグドン・ヒース』はホルストの到達した一つの頂点であり、彼の音楽的特質と神秘主義的世界観が最も明確に極端な形であらわれている作品である
『エグドン・ヒース』で一つの極点に到達したホルストは、ここから新たな段階へ進む。彼の音楽に見られた2つの異質な要素(注27)の対立が解消され、それまで避けられてきた感情表現、抒情性があらわれ、温かさを取り戻す方向へと進み(注28)、独自の自由な境地へと至る。
「彼の最後の作品群の偉大さのいくらかは、彼の住んだ2つの異なった世界の間に残る壁を、最後に辛うじて崩し得たという事実に拠っている。」(注29)
一貫して音楽教育とアマチュアの指導に関わったホルストは、合唱曲、吹奏楽曲等アマチュア用の音楽も数多く残している。(注30)
イモージュン・ホルストは以下のように述べている。「ウィリアム・モリスの話を聞いて彼は『芸術は全ての人が理解できる言葉として、学識のある人と、ない人が共有する、全ての人の毎日の生活の一部分でなければならない』と理解した。」(注31)
一方、民謡収集は単に新しい素材の発見というだけではなく、芸術家個人の創作物ではない、共同体の生み出した音楽の価値への認識であった。(注32)
こういった人々の日常の生活との密接な関わりの世界に住むと同時に、ホルストは、もう一つの世界の住人でもあった。イモージュン・ホルストは次のように書いている。「はるかな遠方(The remote distance)が彼の最もくつろげる所(where
he felt most at home)であったことは疑いはない。」(注33)
この、はるかな世界とは『海王星』の末尾や『エグドン・ヒース』末尾にあらわれた神秘の世界である。チャールズ・リードは『海王星』の末尾のヴォーカリゼーションの部分について以下のように述べている。
「またそれ以上にこの部分は、ホルストの精神と才能、およびそれらが到達するものすべてを象徴するものであり、またある一つの中心的価値を指し示すものであると言えよう。そして、その価値とは、何か純化された孤独な存在と言い換えることもできるものであるが、このヴォーカリゼーションの部分は、この孤独がそれ以上の荒廃に変ることを禁ずる気配も同時に持ち合わせているのである。ホルストは自己の能力を発揮しはじめた初期の時代から、普通の人間には感じられないような神秘的な波長に身をまかせているように見える夢想家であった。」(注34)
クリフォード・バックスは次のように述べている。「多くの人がグスタフの音楽は冷たいと言う。私は彼の音楽が決して官能的(sensual)ではないと認める。しかし、グスタフは驚くべき多才さにもかかわらず本質的に神秘主義者であり、神秘主義は常に平均的肉欲的(sensual)な人にとっては異質で冷たく見えるに違いない。」(注35)
ホルストは、この2つの世界をつなげる方向へと進み、後期には融合へと向かった。彼の作品はいずれも2つの世界のどこかに位置を占めているが、とくに『惑星』、『エグドン・ヒース』といった総合的集成としての作品には、この2つの世界の全体像が示されている。
神秘(Mystic)と生活(life)という2つの世界のつながりとしての音楽がホルストの神秘主義である。